半端者の美学

~漫画動画のジャンルとYouTubeポリシー~


1.


 任侠映画は現在、名画座の多い地域を除けば、映画館での鑑賞が極めて難しい。ごく稀に東映が制作しても毎月新作が配給されるわけではない。2022年の劇場公開作品をざっと見直しても、ヤクザを描いた作品だけで数本、おそらく10本にも届かない。もはやVシネをDVDスルーで見つける程度だ。ところが映画やテレビを離れて他のメディアに目を向けると、任侠ものを定期的に制作しているメディアもある。漫画動画はその1つである。
 漫画動画には、頁をめくりコマを読み進める体験があるわけでもない。画の運動もない。むしろ動かない方が普通であって、声優の声が当てられていてもアニメと言い難い。声優も1人が何役も兼ねており、アニメと同じ分類で論じづらい。「メディアミックス」と呼称しても、純粋な「アニメ」や「漫画」の観点から言えば、「中途半端」になるかもしれない。どちらかと言えば幻灯や紙芝居に近しい。が、これらも毎週数本の新作が出るメディア、しかも任侠ものが制作されるメディアではなかっただろう。本論は、現在徐々に普及しつつある漫画動画を素描すべく、形式的特長を可能な限り論じてみたい。

 漫画動画はそもそも、固有の物語世界を有するメディアではなかった。ネットの検索エンジンで「漫画動画 企業」と検索すればよい。広報物として「漫画動画」を利用するように促す企業が多数表示される。広報物として漫画動画を制作する企業は、「企業や公共サービスをSNSの漫画動画でわかりやすく解説しましょう」と様々な団体に呼びかける。そして企業向けの購買システムや地方公共団体の政策、18歳成人の選挙権、海外での安全な滞在など、各団体の動画チャンネルで配信できるように多種多様な作品を制作してきた。
 宣伝を目的とするPR動画は、政治的プロパガンダにも活用される。漫画動画でも東京裁判を不当だと訴える作品、韓国による反日感情の過剰さを描く作品など、国内の保守的な政治思想を宣伝する作品が制作されている。逆に革新的な政治思想を宣伝する作品はほとんど皆無であり、これも1つの特長と言えるかもしれない。
 漫画動画は現在、PR動画を中心とする草創期を離れ、固有の動画チャンネルを有する時代に入っている。最も人気な「ヒューマンバグ大学_闇の漫画」(以下、「ヒューマンバグ大学」と略称)の作品であれば、1作品の視聴回数が1週間で70万回、1ヶ月で100万回を越える。特に人気の火付け役になったと言える『佐竹博文』シリーズの初期作品は、この4年間で1840万回以上の再生回数を記録している。この転換には、多数の短編作品の制作がきっかけとなっている。
 漫画動画だけを配信するチャンネルでは当初、外国の奇妙な風習や歴史上の奇妙な珍事などの解説、二次創作、パロディなど、多種多様な短編作品を制作していた。多種多様な作品で大衆を飽きさせまいとする努力と、オリジナルの漫画動画によって漫画動画自体の価値を宣伝しようとする意図の双方が、こうした制作に拍車をかけていったのだろう。

2.


 短編作品でオリジナルの作品を増やした各チャンネルは、やがて視聴回数が多い作品の登場人物を中心としたシリーズを制作し始める。いずれのチャンネルでも1本当たり15分~20分程度の短編のシリーズ作品を毎週数本ずつ配信している。特にケイコンテンツ社の「ヒューマンバグ大学」は、この制作体制で大量制作を進め、漫画動画のジャンル化に大きく影響を与えた。
 同社の『佐竹博文』シリーズでは、難病や悲惨な事故を何度も体験してしまうサラリーマン・佐竹博文を滑稽に描く。あまり知られていない病気や事故を佐竹が奇跡的に生き抜くという単純な物語によって、コメディの漫画動画を確立させた。他にも同社は、寄食を食べ歩く大富豪『鬼頭丈二』や、佐竹同様に不運を生き抜く女子アナ『佐伯・ゼッターランド・博子』、世界中の性風俗を体験する『飛田新治』などのシリーズを通じて、コメディの漫画動画を量産していった。さらに任侠・アクション・ヤンキーものの漫画動画も、勧善懲悪の単純なプロットを描き続けている。中でもジャンルとして注目すべきは、「エモル図書館」のホラー作品であろう。
 『【恐怖】もし見てしまったら...数日後に死ぬ女。身長2m40cmの最凶悪霊。』では、高校生の主人公のナレーションによって怪談が語られる。祖父母の家に滞在していた主人公が、人を殺す悪霊「八尺様」に魅入られ、祖父母の住む村から逃げ出す。「恐ろしい悪霊から逃げ出す」という単純なプロットだが、漫画動画独自の編集法やコマの展開によって、独特な奇怪さを描写している。
 主人公が車に乗って村人に守られながら脱出するシーンを見てみよう。このシーンでは、数台の車が道路を走るコマから始まる。移動の説明が終わると急に画面が点滅し、「さぁココから踏ん張りどころだ」と声をかける村人と八尺様の不気味な囁きが別のコマが左隣に現れる。次にゆっくりとしたディゾルブでつい目を開いてしまう主人公のコマが再び左隣に現れる。
 すると今度はショットが急激に切り替わる。しかも前のショットのゆったりとしたディゾルブと対比することで、見つめてしまった主人公の状況が急変したことをショットの切り替わりで描いている。すると主人公が車外の八尺様を見つけてしまうコマが現れ、主人公の悲鳴と共にコマが僅かに震え、村人が一喝し、老婆がお経を唱えるコマが左隣に現れる。今度は一気に暗転し、「更に今度は窓をたたく音…」という吹き出しだけが現れ、車体を叩く音だけが画面外から聞こえ、お経を唱える老婆と叩く音の先に何も見えないことに恐怖を感じる村人たちがコマに描かれる。
 この一連のシーンでは、コマとショットの展開のそれぞれが、視聴者の意表を突くような形で展開している。コマが独特な早さで切り替わるこの編集法は、通常のアニメやドラマの編集法と少々異なることを示している。また漫画動画の編集法が滑らかなコンティニュイティを成立させながら、「見慣れぬ編集法」という奇妙さによって、ホラーというジャンルに最適な効果をもたらしていることも重要であろう。かつてトーキー映画が普及し始めた頃、聞き慣れぬ技術の浸透と同時にユニバーサル社のホラー映画が隆盛を極めたように、漫画動画の編集法も「未体験の技術」という奇妙な体験によって、ホラーというジャンルを定着させていったように思える。


3.


 漫画動画独自の技術は、プラットフォーム内のコンプライアンスからも影響を受けている。YouTubeでは、「YouTubeポリシー」という独自のコンプライアンスを設け、コンプライアンスに基づく自主規制を進めている。性的表現、暴力表現、犯罪行為など不道徳と見なされる表現を同社が発見した場合、コンテンツ削除または収益対象から除外という措置がとられる。そのため、コンプライアンスに基づいて表現を修正した事例が漫画動画にも見られる。
 「裏世界ラボ」の『ニート極道』シリーズは、ニートだった主人公・牧村ユタカが偶然を繰り返して極道として立身出世する物語を描く。このシリーズの第一部の〈プライベート編〉と呼ばれる数編は、コンプライアンスによる影響で表現を修正している。この数編のあらすじは以下の通りである。
ヤクザとして出世する牧村は、童貞にも関わらず、徐々に他の暴力団からの性的接待を受ける可能性が増え始める。女性に不慣れな牧村の態度を危惧した若頭の野口は、牧村の貞操を無理矢理終わらせるべく、性風俗店へ牧村を連れて行く。牧村は、風俗店で何とか貞操を守りつつ、出会った風俗嬢の夫が借金を女性に負わせたり、中学生に薬物を販売したりと悪行を重ねていることを知る。亘津が他の組から破門されていることを知った牧村は、亘津を捕まえて懲らしめる。
 このあらすじに基づいて制作された作品では、2つの内容が「YouTubeポリシー」に抵触した。1つが性風俗店の描写、もう1つが未成年への薬物販売という台詞だった。レーティングシステム導入後の映画であれば、いずれの内容も年齢制限付で上映することができる。ところが事前の年齢制限のないYouTubeでは、コンプライアンスに抵触した時点で規制の対象となる。主な規制は、コンテンツの削除か、「表現の自由」を尊重した上で広告の削除(広告収益の配分対象から除外)の2つに分けられるという。「裏世界ラボ」の作品では、後者の広告削除が適用され、実際に第1部第17話~第20話の広告収入が外されている。そしてその後、収益を得るべく修正されたイッキ見バージョンにおいて、主人公が性風俗店へ入室してしまう前に退出してしまうシナリオと、そして風俗嬢の夫による薬物売買を曖昧にするシナリオに変更され、広告付で再掲載されている。
 一見すると「YouTubeポリシー」は、不道徳な描写を厳格に規制し過ぎている。一方、その厳密さゆえに漫画動画の表現を洗練させる役割も果たしている。特に規制の対象となる暴力表現は、チャンネル毎に異なる描写を試みている。
 前述したケイコンテンツ社は、「裏世界ラボ」と同様に任侠作品を数多く制作し、中年ヤクザを中心とする『天羽組』シリーズなどで、殺人や暴力を積極的に描いている。だが、いずれの殺傷の場面でも、出血と思われる箇所が全て黒く塗りつぶされている。おそらく出血の描写を全て黒くすることで、一般的な「赤い血」のイメージを喚起させずに「暴力」を表現しているということなのだろう。同社は、「血」のイメージを喚起させない暴力表現を徹底することで、コンプライアンスの影響下でも任侠作品・ヤンキー作品の大量制作を進めてきた。だが、出血そのものを描くことはできず、暴力の代用表現を描くことで「暴力」そのものを描けないというジレンマに陥っている。
 こうした中、「裏世界ラボ」の『ニート極道』シリーズは、シナリオにおける独自のスタイルで、暴力表現の規制に取り組んでいる。
 『ニート極道』シリーズの第二部第30話を見てみたい。この回では、敵対組織の殺し屋がエレベーター内でヤクザの若頭を殺そうとする。シーン冒頭のエレベーター内では、殺し屋に加えて、車椅子の男性とそれを気遣う若頭が引き画で描かれる。「車椅子の男が退出したら若頭を殺そう」という殺し屋の独白が2ショット続き、エレベーターが閉まるショット、エレベーターが別の階に到着するショットと進んでいく。いよいよ車椅子の男性がエレベーターを降りるショットかと思うと、エレベーターが開き、車椅子で気を失った殺し屋と、立っている車椅子の男と若頭の会話が描かれる。どうやらこの殺し屋は、エレベーターが移動する間に、若頭と車椅子に座った男の手で逆襲されたようだ。
 私は、視聴者の予想を裏切るシナリオに限らず、このシーンの早さに注目したい。このシーンでは、エレベーターに入る引き画から、殺し屋が車椅子に倒れ込むショットまでたった6ショット21秒で済ませている。しかも暴力表現らしい描写を省略して表現している。
 この作品のシナリオライターと絵師は、他の作品でも暴力描写自体を徹底的に省略している。たとえば第二部第33話の襲撃のシークエンスにおいて、3つのヤクザの襲撃シーンを9ショット1分40秒で一気に畳みかけていく。このシーンでは、壁に撃ち込まれた銃撃や侵入のための刺傷などの暴力表現を描いているが、起きた出来事だけを列挙するように、殴る蹴るといった暴力表現がない。唯一ナイフで腹部を刺すシーンも刺されたことに驚く組員の姿だけが描かれ、出血する手前で暴力が終わっている。
 私は、裏世界ラボの作品における暴力表現の省略を、「YouTubeポリシー」が漫画動画にもたらした形式の昇華だと考える。見世物でしかない暴力表現が規制によって描写自体が困難ならば、描かなければ良い。「裏世界ラボ」のシナリオライターは、「ニート極道」シリーズにおいて、不要な見世物を排除してシナリオの密度を優先する。安易に見世物を描くことよりも遙かに知的な表現であるように思う。
 この知性は近年の映画館でもなかなか見ることができまい。それが今、アニメでも漫画でもない「漫画動画」で描かれ続けている。そう考えると、我々は漫画動画という「半端者の美学」を目撃する必要があるのではないか。


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