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オタクの孤独

 長い連休のあと、深夜にこれを書いている。lofi hip hopをあてどなく流しながら、音と文字の予感を重ねようとブラウザを開く。オタクの孤独について考える。名称と定義についての議論――おたくorオタク――は措く。

 わりと楽しみにしている配信を見逃した。ぼくは別の動画を見ていた。こういうスレ違いはよく起きる。そして、こんな小さなスレ違いの果てに、趣味の「方向性の違い」が現れる。人気バンドの解散理由のようなものだ。

 趣味仲間は、大きな可能性を秘めている。老若男女、何だったら生死の境さえ越えて、コンテンツについて語り浸り、黙し共感することができる。それは奇跡のような瞬間で、互いに異なる背景をもつ人々が、ある作品なりコンテンツなりに熱中し、夢中になれる。

 しかし、そんな趣味仲間にもいろいろな事情で終わりが訪れる。奇跡は軌跡に変化する。そういう瞬間を目の当たりにすると、さみしくもあるが、そうだよなと納得もする。

 裸で生まれ、裸で死んでいく。黄泉には何も持って行けないらしい。共通の趣味を通じて仲良くなっても、やがてスレ違う。それは、この宇宙に存在する無数の知的生命体同士の位置関係のように、空間の拡大の中で、いつかは互いの輝きさえ届かない距離を得てしまう。

 ぼくはキリスト教のおたくだと思う。しかも、かなり重度の。しかし、もう話の合う人々は周囲にはいなくなってしまった。ぼく自身の変化もある。また博士課程も終わり、いよいよ為すべき自らの分をわきまえるようになったのもある。

 オタクは孤独だ。そして主は与え、主は取られる。人は一人で生まれ、一人で土に還る。しかし、人類の天体観測技術が文字通り100億年以上前の過去を見つめるように、いつかどこかで誰かがその瞬きを見ることもあるだろう。崩壊のさまが流れ星であるならば、十分かつ公平だ。そう、恵みと贖いは時空の歪に少し似ているのだ。

 長い連休のあと、いよいよ長い尾を引くための助走が始まる。その前に、明日こそは部屋を片付けたい。

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