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真理の文化性、文化の真理性

 一日休むつもりでいたが、結局、仕事をしてしまった。字を書くのに疲れた頭でまた字を書いている。何かの呪いかもしれない。では、一日何をしていたか。実は、戦後直後より続く老舗・キリスト新聞社の雑誌に、参加した批評誌「アーギュメンツ#3」刊行記念会トークが掲載されるので、その記事構成をしていた。もちろん紙幅のため、全文掲載ではない。文字起こしされたものを見て、記事の構成を考えていたら、昼飯を食べるのも忘れて作業し、夜9時を回っている。開けたままの窓から秋が流れこみ、つま先を冷やしている。

 刊行記念会の当日、ある著名な研究者であり哲学者である方が来ておられ、質問してくださった。「素朴な疑問として、どうして、そこまでキリスト教は布教したいのか」

 実は、ぼくもこの問いに悩まされている。「もしキリスト教徒になりたい、という人がぼくのもとに来たら、まず浄土系仏教を勧めます。なぜなら、日本語に馴染んだ宗教でもっとも大きなものだからです。浄土系仏教を試してみて、それでも合わないなら、キリスト教に来たらいい。キリスト教が日本語文化圏に貢献できることは幾つかあるけれど、一つは、医療・教育・福祉への投資、もう一つが一般社会に対するアジールであり批判精神であること、そして最大の貢献が、日本語と触れたアブラハムの宗教として、接触の結果生まれる日本語の思想的可能性と幅を敷衍することだと思います。宗教としては、いつも三番手、四番手くらいの選択肢がちょうどではないでしょうか(大意)」ということを申し述べた。もっと砕けた言い方だったように思うが、そんなところである。

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 宗教的真理と呼ばれるもの、または超越、絶対、普遍、無限、そう名付けるしかないもの、筆舌言外のもの、そういう何かはきっとある。ぼくは、それをキリスト教という名前で信じている。つまり、キリスト教の絶対性や普遍性を明確に信じている。しかしながら、言語の特質上、また概念の根本的性質として、絶対も普遍も対概念であるから、絶対は相対に、普遍は特殊に依存している。そういう依存的なものは、仏教から借りていえば、空なのだ。たぶん、言語は実在を語るには足りないものだ。だからこそ、神のロゴスはイエスとなりキリストとなった。バ美肉ではない、神肉の神秘がここにある。

 話が逸れた。真理の文化性、文化の真理性である。真理は文化の衣をまとう。文化は真理を包む。ぼくとしては、文化に手をかけて真理から剥ぐのは蛮行であり粋でない。イキりである。上にも示したように、ことばは真理を顕わにして露わにするには、いつも足りない。だから、ある文化において現われる真理は、ときに批判的に洗われる必要がある。とはいえ、それは全面的表白を意味しない。もしそんなことをすれば面白くなくなってしまう。

 これは聖書に出てくる二つの塩の例えに似ている。カインの妻は、神の教えに従わず、振り向いて塩の柱となった。嘘か本当かは知らないが、中東イスラエルの死海に、ソドムの遺構とみられるものが沈んでいるという。事実であると楽しい。

 イエスは、弟子たちを「地の塩、世の光」と呼んだ。塩の役割は、味付けと防腐である。どちらも人々が食べて生きるためだ。しかし考えてみればわかるように、死海は塩分濃度が高すぎて生物が住めない。湖水が人類を拒否して、浮かせてしまうほどだ。イエスは、弟子たちに世間から浮くことを教えたのだろうか。

 創造の善性の原理に準えれば、制度的教会という歴史性の外に信仰の萌芽を見出すことは不可能ではないはずだ。それは、旧約聖書において、生きとし生けるものすべて、全被造物に通用される「息と風」が、新約聖書においてなぜ人格的被造物の片方の、しかも、主体化に成功した人類、「教会」にのみに適用されるのか、という問いでもある。予型論的には、旧約は影なのだとも言えるだろう。しかし、それはそのまま新約的終末が、究極の影であることを示す。神学における、この終末論的収斂なのか、拡大なのか、というのは存外に大きな問題ではないか。まあ知りませんけど。

 批評誌『アーギュメンツ#3』に寄稿した拙稿「トナリビトの怪」を、どのように現代日本の教会事情やクリスチャンの皆さんに紹介すればいいのか、いまいち分からないでいる。つまり、ぼくからすると、彼らは世界にも人間にも塩辛すぎるのだ。もっとも拙稿「トナリビトの怪」で恥ずかしくも表白したが、ぼくは聖書さえろくに読めない駄目切支丹である。聖書もキリスト教もよく分からない。塩分高めなのは日本食の特徴らしいが、それは、日本語キリスト教の特徴でもあるのだろうか。しかし、それでは塩の柱との違いはどこにあるのか。人々が生きるためには、塩は溶けて、味付けをしなくてはならない。溶けた塩と食材の区別は難しい。贖罪とはそういうものではないのか。日本語キリスト教のちょうど良い塩梅を考えている。

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 そんな駄洒落に身を焦がしながら、そろそろ空腹を覚えている。塩味の、なにかうまいものを食べたい。BGMがVonda Shepard「Searchin' My Soul」から初音ミク「メルト」へ流れて「Tell Your World」そして「from Y to Y」へ流れていく。

願うことさえ許されない世界なのかな
たった一つの嘘でさえも
君の涙を生んでしまう
数え切れないほどの罪を重ねてきた
その手に触れたこと
君の隣でそっと生きようとしたこと
今を一つ拾うたび 過去を一つ捨てるような
有限の記憶と時間の中
そこに居座っただけの僕の存在など
きっと君の記憶から消える
もう二度と戻れないの?
ここは始まりか、終わりか (中略)
変わらない気持ちでまた出会えたら良いね
そして手を繋ごう
そのときまで
「またね」

 ぼくは6月16日(土)に再起動した。For The Ultimate Eschatological Re:Union, am a fatting fundamental fanatic traditional historical sacramental kirishitan complex of nothing. So do I...? ということで、『アーギュメンツ#3』刊行記念トーク(6月16日、於:大阪日本橋・旧カフェVillAnge)を収録した、雑誌Ministry 2018年秋・第39号は、11月中旬の発売だそうです。「信仰と暴力」というテーマで、オウム事件、映画「教誨師」監督インタヴューなど、アーギュメンツ#3以外のコンテンツも目立つ内容でお届けします。ご期待ください。

【追記2020.9.17】以下、無事に発売された先出し記事です。


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