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ぼくの考えた最強のキリスト教

 自分の仕事リストに「日本語キリスト教の可能性を敷衍する」が入っている。この2年ほど、ずっと考えている。それはカルケドン信条の思想的可能性の掘削深化を意味する。つまり「混合せず、変化せず、分離せず、分割されず」の現代的可能性である。

 結論からいえば、特異点イエス・キリストにおける四つの否定辞は、教会において、歴史において反転する。言うなれば「聖霊論的反転」が起きる。

 たとえばキリスト論における異端「ニ性二人格」は、聖霊論(救済論後半、教会論、終末論)においては正統教理になり得る。なぜならば、人類の誰もが人間の意思と性質、神の意思と性質を持つからだ。しかも聖霊の謙卑のゆえに、全人類は擬制「ニ性一人格」としてみなされる。それゆえ、キリスト論の異端「仮現論」もまた聖霊論的には正統教理となる。

 言い換えれば、この聖霊論的反転こそがキリスト教的エートスの根幹、「Imitatio Christi:キリストに似る」ことの教理的基礎である。「似る」ということの意味は比較する両者の差異を前提しなくてはならない。すなわち、「Ordo Salutis︰救いの秩序」の歴史的前提が聖霊論的反転である。救済論の用語「義とされ、子とされ、聖とされる」が既にこれを暗示している。養子論的キリスト論は異端であるが、養子論的教会論は正統である。

 わかりやすく言おう。福音はあらゆるものと混合し、変化し、分離し、分割される。福音がカルケドンの否定辞をポジティヴに反転して無限増殖する世界に、ぼくらは生きている。従って、教派が複数あることは全く正当であり、あらゆる混淆形態も容認される。

 裏返していえば、キリスト教の救いとは、聖霊論的反転による歴史的可能性への開きを意味している。誰もがキリストでないがゆえに、キリストとは違う在り方と方法で「キリストに似る」のだ。特異点の非特異点への全時空的適用―――教理用語でいえば、聖定論としての予定と贖いの契約、それは創造と摂理と呼ばれている―――こそ、聖霊論の内実である。従って、キリスト者か否かを問わず、全人類のあらゆる可能性が聖霊にかかっている。

 ぼくはこの創造論的可能性の複数性を考えている。多次元宇宙、平行世界のような、通俗的な意味での量子論的世界の可能性のようなかたちで、創造と摂理――歴史の複数性を考えている。それはあり得た生死の可能性のすべてを包摂する複数性である。

 たとえば事故で亡くなった彼が生き、代わりに自分が死んでいる世界の可能性、あの角を曲がらなければ会わなかった伴侶に出会わなかった人生である。ぼくは、キリスト教は、これらの可能性を含む世界をも包摂し祝福する宗教だと考える。

 多次元宇宙や平行世界などはSFめいた理論的可能性の遊びであって、それを神学的思惟に持ち込むなど笑止千万と思う人もあるだろう。しかし、ぼくは大まじめに考えている。物理学的または神学的な理論的可能性は、人類の想像力とほぼ同義ではないのか。ならば、あり得る最大幅を取ることは、より誠実なあり方ではないのか。

 正直に、踏み込んで言おう。ぼくは、小説やアニメ、映画の中の登場人物の実在を認めたい。世界各地に残る神話のキャラクターたち、空想の産物とされてきた怪物や魑魅魍魎、妖精と妖怪たちの実在を認めたい。なぜなら彼らもまた人類の想像力の先にいるからだ。

 彼らはフィクションかもしれない。しかし、究極的な意味における「実在」とは何なのか。その語に人間は耐え得るのか。むしろ聖霊論的反転という歴史的基礎のゆえに、あらゆる存在が仮現的であるのではないか。

 たとえば、多重人格者におけるキリスト教信仰はどうなるのか。ある人は信じていて、ある人は信じていない。または別の宗教を信じている場合、その人の救いはどうなるのか。意思と身体の一貫性と連続性は、一般に思われているほど強固なものだろうか。本当に、昨日と今日と明日の自分は同一の存在なのか。つまり「存在」のレベルにおいても、混合し変化し分離し分割し続ける世界――これこそが、聖霊論的反転の意味である。

 いささか憚られるが、明確にいおう。ぼくは、聖霊論的反転こそが救いだと考える。特異点キリストの出来事の反転転写としての聖霊論的世界、それこそが歴史の正体である。ぼくらが経験している歴史は、あくまで、その一部ではないのか。仮に、別の人生を歩んでいたとしても祝福されたのではないのか。罪が可能性へと転じられ、痛みは誰かの慰めのためとなるのがキリスト教であり、それを宣言するのが教会ならば、あり得た全ての可能性を包摂する多次元共同体としての教会という可能性はないのか。こうして、可視的教会と不可視の教会の意味、人格と人称の交換可能性の意味は、更新される。

 一部の人々には、ぼくの言い分は正気の沙汰とは思えないだろう。神学を少々かじった勉強屋ならば「いびつな普遍救済主義/万人救済論者」として批判の対象となるだろう。しかし、少なくとも、多次元宇宙や平行世界を視野にいれた神学的思惟は一考に値するのではないか。ぼくは、それを考えることが、無始無終にして永劫輪廻の三千世界を云う仏教という隣人をもつ日本語キリスト教の役目だと考えている。

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