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ソフィとロジー

 ふたりは女の子。寄宿舎で出会い親友となった二人を待っていたのは、大きな時代の激流でした。変わりゆく世界の中で、少女は妻となり母となる。女とは誰か。ソフィとロジー、小さな出会いの行く果ては...?という作品があるわけではない。

 話題は、哲学(philosophy)と文献学(philology)である。知(ソフィア)と言葉(ロギア)を愛すること(フィロ)が、哲学と文献学の意味だ。なにやら大仰な漢字の並びだが、とくに難しい話ではない。

 先日たまたま友人僧侶と新大阪で会った。近況報告がてらタリーズに座り、ブラッドオレンジジュースを啜りながら話した。その中で、哲学と文献学の相補的な循環について話が及んだ。

 たとえば、新約聖書である。マルコ福音書が最古だろうと学問的には仮定されている。だから、マルコを元にマタイとルカ、二つの福音書が書かれたのだろう、という説がある。つまり、マタイ福音書のこの部分と、ルカ福音書のあの部分はマルコ由来である、という説だ。

 しかし、新約学者たちによれば、どうやらマルコだけが元ではないらしい。マタイとルカの成立過程と構成要素を説明しようとすると、何かが足りない。だから、宇宙を満たす暗黒物質のような「Q」の存在が要請された。StarTrekファンならば、高次元存在を思い浮かべるだろう。違う、それじゃない。

 新約学における「Q」とは、ドイツ語で資料を意味する「Quelle」のことである。日本語では「Q文書」と呼ばれている。マタイ・ルカ両福音書の著者が、執筆時にマルコとは別に参照したもう一つの「資料」、それが「Q文書」である。ちなみに、これには邦訳がある。詳しくはそちらに任せたい。

 では、新約学「Q」が、どのように哲学と文献学に関わるのか。実は「Q文書」は、文献として見つかっていない。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書は文献として見つかっている。写本ごとに異同と欠損はあれど、それぞれが一つのまとまりとして発見されている。しかし「Q文書」は、一つの写本としては発見されていない。すなわち、「Q文書」の存在自体に、少しQuestionが点く。

 無論、このような雑でナイーヴな言い方に、これだから素人は...と専門家は呆れ果てるだろう。さらに専門家ならば、こんな記事を読んでいないだろう。ただ、ぼくには、そもそも物体として存在しない、考古学的に発掘されていないモノを、あたかも事実として扱うことに違和感がある。これは神学をやり始めて以来、長年の疑問でもある。

 一般に「文献学」とは、あくまで現実に存在する古文書を研究することのはずである。存在しない文書について研究する――より適切にいえば、存在が要請され、それゆえ遡及し得る文書について研究するというのは、妙な気がするのだ。むしろ、その作業は文献学ではなくて、言葉や文章の関係を問う点において哲学ではないのか。

 あらゆる学問には、研究者の主体と視座がある。それを問わないことで厳密さを担保する分野もあるだろう。が、文献学ではそうも行かないだろう。なぜなら「まず書いてあることに語らしめよ」が基本原則だからだ。人間によって書かれたこと自体が、解釈を要求するからである。解釈するには、その対象と方法を定める「人間」が求められる。文書の存在は前提である。非実在文書における文章/文法/意味の解釈論争というのは、おそらく空想にしかならない。

 私見ながら要約すると、新約学の「Q文書」作業仮説には、文献学と哲学が混交している。哲学なくして学問研究なし、という前提は当然。その上で、やはり存在しない古文書を想定して、それを復元するというのは無理な気がする。少し「恐竜の見た目」復元作業に似ているかもしれない。

 もちろん、古文書に対する哲学的作業と文献学的研究は、相互補完的なものだ。どちらも重要なのだ。たとえば聖書なら、数百年にわたる積み重ねと弛まぬ努力によって、現在、ぼくらの手元に翻訳聖書がある。だから、あらゆる意味において、聖書学をはじめ「文献学」を悪く言うつもりはない。数多の文献学者たちの存在こそ、人類文化の基底を為している。彼らはもっと報われるべきだ。

 そして、ぼくらは古文書を読み、その可能性をどこまでも敷衍する。数百年、千年、二千年前の誰かが書き遺したことばを、まったく違う環境と社会と言語において、それを心にとめて身体化して、社会に参与する。そうすることで、ことばは人となって、ぼくらの間に住みついていく。

 こんな話をタリーズでしていたら、ペットボトルの無糖紅茶が冷めていた。だからオレンジジュース跡地の氷カップに、紅茶を入れてのどを潤した。すると畏友の作家氏も到着した。12月になり、店内も世間もクリスマスの雰囲気に染まっている。

 毎年のことながら、ぼくは本当にクリスマスが好きだ。キリスト教の影響下にある社会では、そこら中で讃美歌が流れ溢れ出す。記憶喪失だった世界が突然、創造主を思い出して歌い出す。キリスト教徒で良かったな、と思う数少ない瞬間がたくさんやってくる。西と東で違いはあるが、教会暦では待降節の始まりとともに新しさの知らせとなる。

 そういえば、ソフィーとロジーはどんなクリスマスを迎えるのだろうか。時代と社会の奔流の中、ぼくのような無能な男どもに言い寄られながらも、その躍動する静謐さを失うことはないのだろう。きっと、どこかで幸せに過ごしているにちがいない。

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