見出し画像

古書にあった手書きのフランス語メモを解読したら面白いことがわかった話

 趣味の古書漁りをしていたら、珍しいものに出会うことがある。「いままで見た古本で、一番古いものは何ですか?」と聞かれたら、あなたは何と答えるだろう。古い大学のある街には古書店がある。たとえば京大文学部にほど近い百万遍の交差点には、看板だけでなく古書店も多い。

 学生たちが旅立っていくたびに、書物は街に残る。彼らは本棚で、次の持主をのんきに寝て待っている。呑気が過ぎて古本市を何度かやり過ごすと店主に廃棄される。本と人には駆け引きがある。 

 先日、友人が所用あって上洛していたので、三条四条あたりで珈琲を飲んだ。その後、せっかく街に出たからなぁと、ある古書店へ向かった。何か面白いものがあれば連れて帰ろうと思ったのだ。とくに貴重なものが数冊あった。今回は少し趣向を変えて、そこから見えた「古書の嗜み」、物語をつつむ物語、古書を所有する歓びについて語りたい。

 入手したのは、ローラン・ゴスラン著/大澤章訳『聖トオマス・アキナスの政治理論』(エンデルレ書店、1948/昭和23年)だ。

 会計時、店主の老婆が「あぁ、まだ整理しとらんからねぇ」と言いながらページをめくり、発行年を確認した。「70年前の本かぁ、これは貴重やなぁ、珍しい本やで」と、こちらを見つめる。思わず、「いや、婆さん、あんた、絶対この本の価値わからんやろ... つか、存在忘れてもう何十年やねん!」と心の中でツッコミを入れた。無論、黙ったままである。

 床から、人の背ほどに積まれた古本ジェンガの森の中から、ぼくが奇跡的に抜き出したのだ。ついでにいえば一冊抜いても、謎の重力場があるようで古本タワーは崩れなかった。ぼくの神がかった技術と換金の機会がやっと訪れたことを、むしろ感謝してほしい。

 しばらく店主はぼくを見つめる。高額をふっかけられたら敵わんと、ぼくも黙っている。無言の応酬のち、あちらが動いた。「300円、300円やな」、店主の声に、ほっとしながら財布を取り出す。どうせ古書店の床で腐っていく本だ。値切ろうかと思ったが、今しかないので即決。店主はニヤリと笑い、商売が成立した。

 翌日、休みなので贔屓の喫茶店へと足を運び、古書の内容をあらためる。昨日は〆切に追われていて時間もなかったので、タイトルだけみて買ったからだ。つまり「ジャケ買い」である。ダウンロード全盛期のいま「商品パッケージのジャケットを観て音楽を買う」という行為を、読者がどこまで知っているのかは置いておこう。

 さて、ローラン・ゴスラン著/大澤章訳『聖トオマス・アキナスの政治理論』(エンデルレ書店、1948/昭和23年)である。

 遊び紙のあとに、何やら書いてある。語学に弱いながら、フランス語の筆記体だなと思った。きっと最上段の右端は「1947」だろう。数字だからぼくでも分かる。本文の書き出し2行目は「c'est」とかではなかろうか。ページ最下部は、きっと「Paris」だ。

「お冷やです」と水をつぎに来たメイドさんに「フランス語わかります?」と聞いたら少しだけならという。見てもらうと、間違いなくフランス語の筆記体とのこと。

 その後、フランス語を解する友人たちに助力を願った。フランス語、ラテン語に堪能な宗教哲学の研究者氏からは、このような返信があった。

これ渡す相手も送り主もProfesseurみたいだね。よく読むと送り主の名前、Bernard Roland Gosselinって書いてあるっぽい。著者だよ。「あなたが翻訳の認可を与えてくれたことがうれしかった」みたいなことが書いてある。何がしかの翻訳手続きに関わったことへのお礼か…。著者が「ぼくの本、なんと日本語に訳されたからあげる!」って送った相手が生前か死後に売ったか… うーん…手紙に相手の名前書かない文化だしなあ…。

 次に返信があったのは、遠くギリシアに研究滞在中のポリグロットな文学研究者氏。言語オタクで、欧州言語はほとんどできる上に、古代語もいくつか出来る。

Bernard Roland Gosselinの下はパリのインスティテュートみたいに書いてますね。一番上は、Monsieur le professeurとありますから、教授に当てたものみたいですね。

 どうやら一人の可愛いメイドさん、二人の優秀な研究者、合計3名によって、このメモ書きがフランス語で教授から教授へと送られたことがわかった。しかし、部分々々では解読できるのだが「現物を見ないと分からない」とのこと。「フランス人に聞いたほうが早い」らしい。

 フランス人の友人といえば、オタク趣味が高じて日本に来たフランス語講師がいる。来日して10年を超える日本通、ピエールさんである。フランスで80年代からガチのオタクだった彼は、らんま1/2からクトゥルフ、特撮からジブリまで全方位に詳しい。折しも喫茶店に、博覧強記のアニメ化作家の友人とピエールさんがやって来た。ここぞとばかりに、当該ページを見せて、翻訳を頼んだ。

 そして、ぼくもあることに気付いた。「服部」という蔵書印があったのだ。古い本なので紙が圧着してしまい気付かなかった。開いてみて発見した。トマス・アクィナスといえば西洋中世哲学、西洋中世哲学の服部といえば... えっ!?

 ぼくもキリスト教研究者の一人である。服部 英次郎(1905-1986)をすぐに思い浮かべた。少しでも西洋思想史、哲学、宗教学に興味のある人ならば聞いたことのない者はいないだろう。岩波文庫の青、アウグスティヌス『告白 上・下』 の訳者である。まさかと思うが、まさか…。

 ピエールさんが手帖にフランス語を書き取り、読みなおす。そして音読しながら、意味の通りを確認し、判読不明な部分も明らかになっていく。そして、一通り解説をきいて、ピンときた。邦訳の冒頭にある著者のことばだ!

拝啓  聖トマスを貴国の同胞にお知らせになりたいと思われるのは、まことに結構な御計画と思います。心から賛意を表し、喜んで本書の翻訳発行権の一切をあなたに譲渡いたします。あなたの知的使徒職の達成について真摯な念願をいだいております。

 そう、ぼくが300円で買ったこの本は、おそらくローラン・ゴスラン教授本人がパリにて自著邦訳にサインして、服部英次郎先生に送ったものなのだ。還暦過ぎた老司祭ゴスラン、そして、敗戦日本の荒廃の中から立ち上がろうとする哲学者・服部の交流の一場面が、この古書の意味である。不惑の四十を過ぎ、脂の乗った服部は、文字通り、日本の学術的基礎となる。

 訳者・大澤章(1889-1967)は、このとき、57才、九州帝国大学法文学部を退職した直後の国際法学者である。憲法学者・杉原泰雄(一橋大学名誉教授)が、その誠実な人柄、優れた研究者/教育者としての大澤を回顧している。 大澤の好敵手として語られる横田喜三郎(1896-1993)とは、性格も経歴も対照的だった。横田は、満州事変においては軍部を批判し、戦後は天皇制を批判してのち、最高裁判所長官にまで登りつめた国際法学者である。

 大澤と服部との関係までは分からない。しかし、パリ大学の博士課程に所属していた大澤とゴスランは懇意の友であったろうし、その関係から、ゴスランと服部が知己を得たことは容易に想像されよう。

 なお著者であるベルナール・ローラン・ゴスラン(1886-1962)は、19世紀パリの名家の出身である。親族であるルイ・ローラン・ゴスランは、皇帝ナポレオン三世から鉄道、保険の株式仲買人として任命されるほどに信頼と名声を得た。同家には他にも司教、植物学者など、著名人が多い。しかし、著者ベルナール・ローラン・ゴスランは名声を望む人ではなかった。司教へと期待されるも、それを固辞した人だった。大澤とローラン・ゴスラン、互いに似ていると思ったかもしれない。

 実はその大澤がトマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』を翻訳している。有名な話であるが、最初に日本語に訳されたキリスト教書こそ、『キリストにならいて(1596年『こんてむつす・むんぢ:CONTEMPTUS MUNDI』)である。以来、複数の翻訳が出版されている。大澤もその一人である。私家版・日本キリスト教史(1374‐2045)にも記したとおり、トマス・ア・ケンピスは、ヘルート・フローテへとつながる歴史水脈だ。大澤もまたフローテの子孫だといえよう。

 古書漁りをしていたら、珍しいものに出会うことがある。「いままで見た古本で、一番古いものは何ですか?」と聞かれたら、あなたは何と答えるだろうか。

 ぼくは「死海写本」と答えよう。在米時、休暇中に足を伸ばして国境を越え、カナダ・オンタリオ州の王立博物館へいったことがある。折よく、死海写本の展示が来ており、短い滞在のほとんどを写本の前で過ごした。たしか創世記の最古の断片と詩篇、ダニエル書などが来ていた。詩篇の単語を3つだけ読めたのは、うれしい思い出だ。展示内容についてはこちら(ROM,2009)を確認してほしい。

 しかし、思えば、2001年に神戸に来た死海写本も見学していた。だから二回だけ、人類最大の宗教的伝統に連なる、約2,000年前の「古書」を観たことになる。くわえて、もう一つ。古書の定義によるが「古い文字」という意味ならば、京都大学博物館が収蔵するシュメール語の粘土版を触ったことがある。未解読のもので、それらは軽く3,000年以上前のものばかりだった。

 本と人には駆け引きがある。ピエールさんは「おもしろいですね、メイド喫茶で知り合った友人から、70年前に書かれたフランス語を解読するように頼まれて、しかも、その内容が、有名な学者から学者への手紙だったなんて、日本に来たばかりの過去の自分にいっても絶対信じないですよ」と笑った。

 誰かがどこかに書いた「ことば」は、こうやって、いつか誰かに届くのかもしれない。メソポタミアの泥地の中で発見を待っていた粘土版、死海のほとりの洞窟で二千年眠っていた聖書、フローテの子どもたちの物語をつつむ物語。これこそ、古書を所有する歓びであり「古書の嗜み」なのだ。

 古書に記されたフランス語のメモ書きのように、いつかぼくらのことばも誰かに届くのかもしれない。ことばを編むのが仕事の畏友たるアニメ化作家氏と、静かな喜びを感じながら、ピエールさんを見送った。夏の日差しは傾いて、八月の緞帳を引いている。ベルナール、大澤、服部たちが交錯した71年後の来月が、明日からはじまる。

 次回も古書の嗜みが続きます。乞うご期待!

※有料設定ですが全文無料です。研究継続、資料購入のためサポートお待ちしております

ここから先は

0字

¥ 300

無料公開分は、お気持ちで投げ銭してくださいませ。研究用資料の購入費として頂戴します。非正規雇用で二つ仕事をしながら研究なので大変助かります。よろしくお願いいたします。