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餅は餅屋に、神のものは神に。

 先日、礼拝に出席し、ふと思った。「あぁ、教会って最大公約数のためのものだよなァ」、非常に深く納得した。そう思うと、その営みへの深い敬慕の念さえ覚えた。教会は不特定大多数にして最大公約数的な人々のために語られる「神のことば――キリストの手紙」なのだ。

 より多くの人々に、より分かりやすく、より明確に。枝葉末節、複雑怪奇なことは措いて、聖書と聖伝――キリスト教の主要な内容を伝えるものが「教会」である。たとえば一個の地域教会は、少なくとも、その地域において数十年から百年の期間をみて、つまり、世代を超えて語るものである。

 その使命はサクラメントによって、その地域の意味世界を根柢から支えることである。だから、あのまま、そのまま、このままで良いのだ。そう思った。

 日本における最大公約数的な人々とは誰だろう。少なくとも、彼らはヘブライ語もギリシア語も辞書を引いてさえ読めないだろうし、英語も話せないだろう。大学院は出ていないだろう。アニメ化作家でもなければ批評家でもなく、単著持ちでもない。年収1,000万円を軽く超えるような人々でもないだろう。たぶん、希有な難病罹患者でも、何かのマイノリティでもない。

 普通、彼らはみな労苦と人間関係をともなう仕事に疲れながら、それでも家族や趣味や何かの楽しみのために、日々暮らす生活者である。教会は、そういう人々に語る歴史を貫く使命を帯びている。だから、あのまま、そのまま、このままでよい。

 教会は、その自画像のように「混合せず、変化せず、分離せず、分割せず」にその本質を保ってはいない。すでに混合・変化・分離・分割したもの、それが教会なのだ。だから、あのまま、そのまま、このままでよい。

 幸か不幸か、ぼくは最大公約数には当てはまらない。少なくとも、日本の教会集団ではカテゴリーエラーである。だから合わないのだ。

 思わずスッキリと教会とのすべての関係が昇華されたので良かった。折しも誰かの洗礼式であった。教会にしかできないこと、それはサクラメントの執行である。数は別にして、洗礼と聖餐と。一個の人格を超えた歴史的機能を果たす真理の柱、それこそ教会である。

 教会があるからこそ、ぼくは好き勝手なことを言いいまくり、好き勝手に野垂れ死のう。VIVA LA 教会!ありがとう教会、さようなら教会!

 「さようなら」は言い過ぎにしても、非常にスッキリと役割分担に納得したので、気兼ねなく生きて逝こうと思った。今後、ますますニッチな人々に向けて語ろうと心に決めた。もし自分を不特定大多数の最大公約数だと思い、聖書や教会、キリスト教に興味があるならば、教会へいこう。不特定多数ではなくて、エラーや特例の場合は、別の道を考えよう。餅は餅屋に。神のものは神に。教会バイブスをアゲて言おうぜ!!!!!!!アァぁぁぁぁぁぁぁメェェェェェンッッ!

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