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不穏な4月と来世

 コロナ災禍によって、世情が目まぐるしい。「五輪/万博以後の日本には外国人観光客が途絶え、老人ばかりが徘徊している」「日本は「鎖国」したほうがよい」と前々から思っていた。よもや現実にそれを見れる日が来ようとは……予想だにしなかった。

 観光客のいない「寺町・三条」は、外面が気になって仕方ないのに、誰からも相手にされなくなった日本の姿があった。何をどう考えても「鎖国」なんて不可能だろうと思っていたが、現在、一時的ではあれ事実上の鎖国状態にある。しかも日本だけではなく、世界中で。

 毎年、気管支炎の手前まで行く人間としては少々肩身が狭い。せき込むことは、誰かの殺意を身に受けることだからだ。とりあえず、咳止めを飲んでしのいでいる。春になって暖かくなれば収まるので、それを待っている。しかし、コロナ災禍はおそらくワクチン実装まで数年は続くであろう。大変な時代となってしまった。

 伝染病なので「とにかく自分から誰かに移さない」という対策が重要だ。とはいえ「福祉」のように、その場にいなくてはならない仕事もある。だから、ぼくは外出せねばならない。似たような環境の方も多いだろう。ぼくらが生まれたこの国の、ぼくらが選んだこの政府は、給与も生活も保障してくれない。ただ搾取して無駄遣いするだけである。

 残る選択肢は、個人レベルでの経済破綻による社会的「死」か「自殺」、またはコロナによる「病死」…。昔の愚かな若者なら「革命」、また原理主義者なら「千年王国運動」くらいは言うだろうか。結局、気をつけようもないけれど、互いに気をつけるしかない。「(罹っても)ええじゃないか」運動も、宗教的には理解できるが、社会的には許容できない。

 あくまで個人の考え――少し難しくいえば「死生観」――として、結局、いつか来るものが少し早くなっただけ、という気もしている。ユダヤ教「律法」、キリスト教「旧約聖書」に、こんな話がある。

 ......ヨセフは父ヤコブを導いてパロの前に立たせた。ヤコブはパロを祝福した。パロはヤコブに言った、「あなたの年はいくつか」。ヤコブはパロに言った、「わたしの旅路のとしつきは、百三十年です。わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで、わたしの先祖たちのよわいの日と旅路の日には及びません」。ヤコブはパロを祝福し、パロの前を去った。

 美しくも迫力のある場面だ。

 このヤコブという人は、若い日に愚かな兄を騙して一族の祝福と継承権を手にした男である。母の偏愛のために多少ゆがんだ少年時代を過ごした。色々あって故郷から逃げて、伯父のもとで暮らし、騙されて複数の家庭を得た。老いてのち、授かったヨセフを溺愛した。

 しかし父に似たその子は、兄たちを侮辱したせいで、彼らによってエジプトに奴隷として売られてしまう。ところがヨセフはたくましく生き残り、紆余曲折へて王の宰相にまで登りつめた。

 折しも世界は大飢饉に襲われ、悩んだヤコブは一族を連れてエジプトに来る。そして、思いもしなかったヨセフとの再会を得るのだ。「創世記」のクライマックの一つといえる。上掲箇所は、その一幕である。

 では、そのヤコブはどんな人物だったか。

 ヤコブは祝福を得るために、神を相手に夜を通して相撲をとるような人だった。神があきらめるまで、または神が呆れるほどに、神と格闘した。

 結果、神は彼にひとつのくびきを与え、その名を「神と戦うもの:イスラエル」と呼んだ。ヤコブは祝福を得た代わりに、障碍を得て自分の歩幅で歩けなくなる。以後、彼に許されたのは、神の歩調に合わせることのみ。古代イスラエル宗教の起源神話であり、「アブラハムの宗教」の信仰的史実である。

 ヤコブの言葉にいくつか思うところがあった。

 一つは、ときに信仰が「神に対して我を通す」ことを意味する点。従順さでも、積極的主体性でもない。ボロボロになりながら、神と格闘し、食らいついていく貪欲さ、あきらめの悪さもまた「信仰」として数えられるのだ。

 しかし、そんな強い人物でさえ、最後には「日はわずかで、不幸で、先祖たちには遠く及ぼない」と告白せざるを得ない。「人の弱さ」を考えさせられる。

 加えて「人生には何が起きるのか分からない」という当然のことを確認させられる。失ったはずの愛息ヨセフは異教の帝国で宰相になっていた。ヨセフが一族の危機を救ってくれることなど、ヤコブは夢にも思わなかった。

 それでも、族長ヤコブは自身の生涯を見渡して「日はわずかで不幸、先祖らには遠くおよばず」と告白している。

 130年を生きた老人は、この告白をもって、異教の帝国を祝福し、王の前を去っている。権勢の極みにあるさすがのパロも気圧されたかもしれない。この記述のしばらくあとで、ヤコブは死に「彼の先祖たちに加えられた」。

 翻って、昨今のコロナ災禍を思う。個人としては、あと何年生きているのか、わからない。できれば2045年を見届けたい。それまでに思わぬ喪失もあれば、再会もあるのだろう。そして、ぼくも先祖らに加えられる日が来るだろう。

 コロナ災禍は、たしかに世界を変えている。しかし、それぞれの生活の中で変わらないものも、きっとあるのではないか。

 先のことは分からない。嘘のようなホントの話も目の当たりにする。しかし、ぼくらの歩みの「日はわずかで、不幸で、先祖たちには遠く及ばない」ものである。死ぬときには、この世のすべてを祝福して立ち去ればよい。そして、先祖たちに加えられるだろう。

 職場の空き時間で、これを記している。点けっぱなしのTVは、明滅する虚無だ。そこに近代社会「知」の再生産装置としてのメディア性は、微塵も感じられない。否、そもそも人類には「近代」は無理だった。技術は可能だったが、思想として、主体としては遠く及ばなかった。

 そんな多くの日本人にとって、これほど不穏な4月も珍しい。春めく桜色が鈍く淀む、そんな思い。それは来世を思うときに現れる死の棘のようなものだ。

 とはいえ、個人的には今生も来世も大差ないと思っている。コロナ災禍よりも遥かに苦々しいことも数多ある。だから、せめて咳き込まずに仕事へ行くしかない。また、ぼくの「変わらないもの」は、博士論文の提出期限である。粛々と読み調べ書かなくてはならない。

 やがて、コロナ災禍が過去のものとなる日が来るだろう。この島国の地震と同じく、より酷いものも経験するかも知れない。この不穏な4月のその先で、それでも、ぼくはヤコブと口を合わせて言うだろう。

「わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで、わたしの先祖たちのよわいの日と旅路の日には及びません。」

 アーメン、主よ、憐れみ給え
 アーメン、主よ、とく来たりませ

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 折しも志村けんの訃報を目にした。子供のころ、よく笑わせてもらった。有難うございました。

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