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Kiss me, kill me.

 友人より結婚式でのスピーチを頼まれて、東京へ行き、楽しい滞在のちに帰洛して、これを書いている。原稿をもって話すのは、みっともないかと思ったのと、あまり堅苦しい話にしてもダメかと思い、急遽、原稿なしで話すことにして、無事に爆沈した。

 会場は笑っていたようにも思うので良かったのかもしれない。ほぼ緊張しない人間なのに、今日はやたらめったに緊張して変な汗をかいた。せっかく書いたのだからと思い、結局、読み上げなかったものを以下に掲載する。

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 さて、皆さんは映画を見られますか。見るとしたら、どんな映画が好きでしょうか。私はハリウッド映画が好きなんです。ハリウッド映画といえば、だいたい最後は、ハッピーエンドですね。細かいツッコミも、ややこしいこともおいて、絶望的な危険を潜り抜けた主人公たちが、最後は熱いキスをして終わる。何も考えなくていい、すっきりしていて好きです。

 さて、聖書にも「熱いキス」の話があります。実は、聖書は66巻ありまして、その中に、ソロモンの雅歌、みやびな歌、と呼ばれるものがあります。伝統的にソロモン王が書いたと言われています。有名な、伝説の財宝の、あのソロモン王です。ちょっと聖書を読んでみましょう。

あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。あなたの愛はぶどう酒よりも快く、あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。それで、おとめらはあなたを愛しています。私を引き寄せてください。

 聖書の翻訳ですから、丁寧に、上品に書いています。ある女性の告白です。もの凄く簡単に意訳しますと、「一番好きなお酒や香水の匂いよりもあなたが好き、抱いて!」となりますね。非常にシンプルな話。

 ある女がある男への愛を歌っている、これがソロモンの雅歌の特徴です。しかし、キリスト教会は千数百年ほど、この書物の解釈で議論してきました。学者によって登場人物の数が変わるので、解釈が難しいのです。

 聖書は、神からのラブレターであると言われます。だから、ソロモンの雅歌も、キリストから教会への愛の歌だ、と伝統的に考えられてきました。しかし、歌い手は、明らかに女性です。一方イエス・キリストは、ほぼ間違いなく筋肉ムキムキのゴリラのようなガチムチ大工おっさんだったと言われています。ちょっと違和感が残ります。

 最近の研究では、むしろ単純に男女の歌ではないか、と言われています。宗教的な意味を読み込むのではなく、古代エジプトを背景にした、婚約した男女の関係が歌われている。それが聖書に残ったのだ、という説。または、ドラマの台本や脚本だという説もあります。

 どんな説でも共通するのは、このソロモンの雅歌が、とにかく熱烈な愛だ、という点です。「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに」、少なくとも結婚を考えるような関係でなくては、こんな恥ずかしい文章をわざわざ文字には残さない。完全に黒歴史です。ツイッターならアカウントを捨てるレベルです。

 キリスト教は、一方通行で考えました。神から教会へ、または男から女へ。しかし、良く分からない。ところが、キリスト教よりも、より古いユダヤ教の解釈にヒントがありました。

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 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の違いについて説明しましょう。これら三つの宗教は、一般に「アブラハムの宗教」と呼ばれ、神のことばとなる宗教正典、聖なる書物を共有しています。分かりやすく、引き算で考えましょう。
 
 大雑把に過ぎますが、イスラム教から、クルアーンを引くとキリスト教になり、キリスト教から新約聖書を引けば、ユダヤ教になります。ユダヤ教の聖なる書物が旧約聖書で、このソロモンの雅歌は、旧約聖書に含まれています。

 さて、ユダヤ教における雅歌の解釈のヒントです。キリスト教は、雅歌を、キリストから教会へ、または男から女へというように、一方通行で考えました。しかし、より古い、元々のユダヤ教の理解では、双方向で考えています。つまり、片思いの熱烈な愛の歌ではない、両想いの歌として解釈する。

 ユダヤ教の大きな祭の一つに、過ぎ越しの祭というものがあります。古代のユダヤ人は、エジプトで奴隷でした。その苦しみから、ユダヤ人は神に助けを求めます。神は、奴隷を苦しめた罪の裁きとして、エジプト全土に大きな災いを下します。災いを過ぎ越すためには、救われるためには、神の約束に従って、動物を犠牲として捧げ、その証拠として、その動物の血を玄関に塗らなくてはなりません。神からの裁きを過ぎ越して、救い、赦しを得る、それを記念するのが、ユダヤの過ぎ越しの祭です。
 
 ユダヤ人は、この過ぎ越しの祭で、ソロモンの雅歌を歌います。つまり、神への応答、赦しの記念として、ソロモンの雅歌を詠唱するのです。一方通行が終わり、双方向が始まる記念として歌うのです。

 たとえば、心理学に「返報性の原理」というものがあります。人間は、一般に、好意を示されたら好意を返さずにはいられない、という話です。しかし「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに」とまでいう関係は、より深く強いものです。互いが互いを認め、愛し、尊敬するものでなくては成立しません。では、双方向であるためには、何が必要なのでしょうか。

 聖書の創世記によれば、神は、女を男のあばら骨から造り出しました。つまり、一体的でありつつ違いがあること、個人でありつつも、個人であるために他者が必要なのです。

 キリスト教は、この原理を夫婦関係に適用しています。夫には妻を愛するように、妻には、夫を敬うように、と命じています。夫婦の関係は、キリストと教会の関係にも当てはまります。つまり、夫は、キリストが、教会を愛したように、自分以上に妻を愛する。妻は、教会が、キリストを敬ったように、自分をこえて夫を敬う。

 これが、世界最大の宗教、キリスト教の、またはアブラハムの宗教の、夫婦関係を保つ秘訣です。相手の罪をみつけても裁かない、むしろ相手のそばに立って赦すこと。聖書が夫婦に命じている第一のことは、赦しです。

 わかりやすい話ですね。たとえば、夫は、妻のオチのない長い話を黙って聞いて、赦して愛する。妻は、そんな夫の無神経さを赦して敬うのです。相手と自分が違うことを認めた上で、相手を責めるのでなく、ともに歩むための道を選ぶのです。

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 愛は、「返報性の原理」を超えたものです。そうでなくては、愛と呼べないのです。何かを得たから、何かを返すという関係は、簡単に、憎しみの連鎖へと落ちていきます。だから、先に、一歩踏み出して、赦す、これが大切なことです。

 そして、赦しのために一歩踏み出すとき、「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに」という聖書のことばは、新朗新婦、二人の心になるのです。一方通行では終わらない関係が始まるのです。

 ところで、重大なことを言い忘れておりました。実は、このソロモンの雅歌のことば、「あの方が私に口づけをしてくださったらよいのに」というのは、あまり良い翻訳ではないんです。より適切に、赤裸々に訳しましょう。

「あなたの口付けで息もつけないようにしてください!」
意訳しましょう。「あなたのキスで殺して!」

 えらい生々しいですね…。冒頭、ハリウッド映画の話をいたしました。映画の終わりは、いつも愛する二人が熱いキスを交わして、ハッピーエンドです。実際には、映画の終わりこそ、二人の始まりですね。

 映画のような毎日は、あまりありません。日常とは、良いことばかりではない、毎日の繰り返しです。だから、夫婦の記念日が大切です。二人が、一人を終えて、互いの約束と始まりを思い出すのが記念だからです。ユダヤ人は、神の愛を記念してソロモンの雅歌を歌いました。夫婦の記念日は、互いを裁くためではなく赦すためにあるのです。

 それは、ここに集まった皆さんも同じです。人間関係は、裁くためではなく祝福のためにあるのです。父と、子と、聖霊の御名によって、新朗新婦と、ここに集われた皆さんに祝福がありますように。

 ソロモンの雅歌、聖書には、このようにあります。

「あなたのキスで殺して!(超訳)」

 窒息すると困りますが、新朗新婦には、まず神のことばである聖書に従って頂きましょう。キスは赦しの記念です。では、記念に、お一つどうぞ。

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