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教養と読書

 さいきん「読書したい」と切に思うようになった。とはいえ、ぼくの生活環境では、せいぜい週に1冊読めれば上々である。つまり、週に2~3回、2時間か3時間、活字に向き合う時間がとれたらかなり良い。その他は生活のために稼がねばならない。また、このように趣味の駄文をしたためたり、人に会ったりやら観たい映像やらがある。

 これはおそらく随分マシな方で、上司や友人らを見ていると、本を読むなり思索にふけるには、時間が足りない。毎日会社へ行き、残業があり、配偶者との関係があり、育児がある。彼らに「自分の時間」など存在しない。「読書の時間がある」のは、独身中年男性の数少ない利点と言えようか。

 友人作家から聞いた話で、ある人が「主人公が交代しました」と時候の挨拶とともに、子供の誕生を知らせる葉書を寄こしたそうだ。なるほど、言い得て妙。微笑ましい表現だ。一方で、なんだかんだ言って個人の意識は続いているから「主人公の交代」とまでは言えないかもしれない。

 今朝ふと思った。毎週1冊読めば一年で約50冊、10年で500冊だから、60才までに、あと千冊読めたら僥倖かな。千冊というと、積ん読状態のものを消化したら終わるような気もする。果たしてどうなるか。こういうことを思うを、可能なら、あと100年でいいので、潤沢な資金と頑強な身体がほしいものである。

 本を読み、教養を身につけるには時間がかかる。一般的には、それは大学で4年間しっかり学ぶことによって、最低限度の感性がつくられる。しかしながら、人類一般にとって、その4年間が繁殖期の上昇気流に重なっているので、多くの人々が身体性に呑まれて、活字世界の広がりを知ることなく、童貞と学校を卒業して後は、仕事の忙しさ、家庭の忙しさに埋没してしまう。

 だから、現代日本においては、おそらく「教養がある」と見なされるのは、大学院生以上なのだろう。そして「教養が求められる」のは、博士課程以上の人々である。そう思うと、まことに恥ずかしい話になってしまう。自分にはごく限られた狭い了見しかないなと嘆息してしまう。

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 個人的に「教養」とは、適切なタイミングで例話を引くセンスだと思う。だから、数式に強い、文法に明るい、自然科学について流暢であることは、必ずしも「教養」とはならない。固有名の羅列ではなくて、羅列から引っ張って来る勘の良さとでも言おうか。その引用を、自分の実存に絡めつつ、しかし距離を置きつつ、扱えること。そういう感性を教養と呼ぶのだろう。

 「教養」の顕著なあらわれの一つは「ある学問体系なり研究史をメタファとして他分野に適応する」という形があると思う。たとえば、教会史/キリスト教思想史における論争なり出来事なりを、仏教思想史に当てはめて理解するような場合である。

 駄さい例話だが、浄土真宗と浄土宗の本質的差異をつかむために「カルヴィニズムの五特質とレモンストラント」における思想と歴史は、それなりに有効だと思う。あくまで対話の継続のために、他分野・異領域とのインターフェース構築のための足がかりとして、有効なのだ。たとえば、作家・司馬遼太郎には、こういう点で教養があったと言える。

 では「教養」は、どのように使うべきか。そこは人それぞれだろう。ただ、昨今の社会環境をみると、一つの使い道は、何かしらの発信をすることになるのだろう。発信といえば、いまでは個々人がそれぞれにメディアのような時代である。だから、誰でも発信できる。

 しかし、結局、執拗に確認され、議論を深められて更新され続けてきた事実なり問題なりというのは、やはり活字本に残っている。だから、結局、活字を読む、活字を著すというのが、「教養を求められる」人々が為すべきことになるのだろう。

 つまり、院生は修論なり博論を書くしかないし、学位を得て、職に与った者は研究し、活字を著さねばならない。こうして「教養」は、ふたたび読者へと還流するのだ。

 ということで、再来週に迫った研究発表に向けて、ようやく趣味の読書をとめて研究の精読モードに入った梅雨入り三日目の午後である。日に精読できる時間は、せいぜい4時間だと思うので、今日は、これから映画館で『AKIRA』を観てこようと思う。その後、もう一度2時間ほど精読すれば、本日の予定は消化したことになる。アジサイのように吸水できるときに、水を飲まなくてはならない。もしまだ生きていたら、20年後、千冊読めているだろうか。

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