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送信ミスがつなぐもの

 地下鉄に乗る間際、着信に気付いた。見覚えがあるような、無いような番号。そもそも親からしか鳴らない「電話」である。仕事の連絡だとマズイので、とりあえずかけ直してみた。誰も出ない。

 まあいっか、と画面を閉じようとしたら、再び着信。「○△□...」「え、○△□?!」電話の向こうには、小学校3年から付き合いのある友人がいた。連絡があったからかけなおした、と友人はいう。いや、かけ直したのはこちらなんだけども。

 どうやら彼の電話にSMSで見知らぬ番号より「29日から、そっちに帰っている」という連絡があったらしい。それで、とりあえず覚えている番号に連絡してみた、と。

 「もう地元?」と聞かれた。いや、いまから地下鉄に乗ると答えた。おそらく、誰かの番号間違えと送信ミスなのだろう。最後にいつ連絡したか覚えていない。友人とは、小中が同じで、高校大学とは離れたが、何だかんだと付き合いが続いた。地元にいる唯一の友人といっていい。

 小学校以来からの付き合いである。とはいえ、頻繁に連絡することもない。数年に一度、ふと思い出したように顔を会わせて近況を報告している。直近だと、2018年7月の大雨のときだろうか。覚えていない。

 コロナ禍のもと、いっそ高速道路を封鎖したい岡山に、それでも帰省しようとしている誰かがいる。その誰かの送信ミスが、ぼくの人生のたしかな一部を期せずして呼び起こす。

 人生には、こんな誤配がたまにある。子供の水きり遊びの飛沫のように、予想外のさざ波が何かをもたらすことがある。比喩的なバタフライ効果。祖母に顔を見せに戻らなくてはならないが、忙し過ぎて、4月になったらと思っていた。しかし不穏な四月は、仕事へいく以外は外出しようがない。少なくとも、老齢の祖母に会うために、関西都市圏を離れて地元へは向かえない。

 ぼくらがまだ少年と青年の間を行き来していたころの写真の写真に、遠い昔日がよみがえる。誰かの誤配が、ある一点を指さして、そこからの距離を知らせてくる。

 送信ミスによってもたらされた旧交の息吹。今度は、これが何をもたらしてくれるのだろう。ぼくらの明日は、コロナ禍の向こう側にも続いているのだ。

 ちょうど友人は虹を見たいと思っていたそうな。期せずして、17才の頃にみた虹が、再びぼくらの瞳に映し出されたのだった。

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