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約46億年ぶりに聖書を読んだ話

 先日、たまたま友人宅で行われている「聖書を読む会」に参加した。一家そろって敬虔なプロテスタントで、夫氏は大学で教え、細君は元看護士、いまは二児がある。熱心でありながら、視野狭窄になることもない人たちで、心地よい十数年来の付き合いが続いている。

 普段「聖書を読む会」などに出席する機会はないのだが、久しぶりに訪ねたら、その日だった。だから、そのまま参加した。形式はシンプルかつ古典的で、担当者が聖書個所を読み、考えてきた疑問を参加者と共有し、皆で読み、考えていく。古き良きアメリカンな、またはピューリタンらしい聖書への姿勢が伺える。

 当該箇所は、士師記17-21章である。士師記といえば、神の民となったイスラエルが、モーセの後継者ヨシュアに引き連れられて「約束の地」へ侵入したまでは良かったが、ヨシュア死後に堕落して民族的危機を迎える話である。イスラエル王国がダビデ・ソロモン王朝において栄華を極める以前、そんな危機の時代を救う英雄たちこそ「士師」である。

 ところが、この士師記の終わりが非常に暗いことで有名なのだ。毎朝、聖書を通読して、神のことばに親しみ、力と愛と祈りを新たにする多くの敬虔な信徒にとっては、重苦しい箇所として有名である。

 簡単にいえば、士師記の最後は、強姦殺人事件の果てに、その遺体がバラバラにされて12部族へ送りつけられた挙句、内戦の結果、部族ひとつが殲滅される。古今東西、ここまでのバッドエンドも珍しい。

當時はイスラエルに王なかりしかば各人その目に善と見るところを爲り(士師記21:25)

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」、士師記においてリフレインし、最後にも置かれているこの章句は、読者へ暗澹たる余韻と不穏な続きを予感させている。すなわち、神=王なき民の悲惨さが綴られている。

 司会の担当者、また他の参加者も「人間の罪」の問題として、この個所を痛感しながら読んだようだった。ただ、ぼくは広い意味で「キリスト教」の専門家なので、みなの感想は前提として、別のことを考えていた。

 参加者らからも指摘があったが、士師記17-21章で興味深い点のひとつは、創世記19章との類似である。いわゆる「ソドムとゴモラ」の箇所だ。話としては、天使らがロトと彼の家族を救おうと町を訪れる。あろうことか、町の者らは、天使らを味見したい(男色したい)ので差し出せ、とロトらと一触即発になる。そして、なんだかんだあって、ロトの妻が塩の柱となり、ロトの娘たちによる近親相姦が行われたところで19章は終わっている。

 創世記のこの記事と士師記19章の内容がよく似ている。士師記の著者は、意図的にソドムの罪の状態に、当時のイスラエルの罪の蔓延を重ねて書いている。無論、違いは様々にある。ぼくは一つの違いが気になった。

 創世記では、なんだかんだ言いながら、天使が派遣されて、神に従うロトらが直接的に救われる。しかし士師記において神は、直接的に介入するわけではない。民は、神に「御心は何か」と尋ねることを求めている。士師記の神は、直接は助けない。

 創世記19章ロトの時代は、族長アブラハムと同時代である。順次、アブラハム、イサク、ヤコブと下り、約400年ほどたって、モーセがエジプトで活躍して引退し、後継者ヨシュアが現われて、また彼も死んで、その孫あたりの話だということになっている。まあ、適当に見積もって、約半千年紀も前の話なのだ。

 現代人にとっては、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らの時代くらい距離のある話だろうか。プロテスタントが族長ルター、カルヴァンについて物語るのに近いかもしれない。

 要するに、創世記と士師記が似ているとはいっても、そこに時代の差が見られる。だから違いは当然であるといえば、その通り。ただ、これが重要なのだ。

 夙くより録されたる所は、みな我らの教訓のために録ししものにして、聖書の忍耐と慰安とによりて希望を保たせんとてなり。(ローマ人への手紙15:4)

 パウロあたりが上記のようなことを言っている。すなわち、聖書は、ぼくらを含む後代の人間の教訓のために記されているという意味だ。もしそうであるなら、創世記19章と士師記19章の歴史的間隔には、意外に大きな意味があるだろう。

 神は、人類の揺籃期(創世記の時代)には赤子をあやすように直接介入し、手助けしている。しかし、幼児期(士師記)には、親に尋ねて従うことを求めるようになる。さらに時代が下るにつれて、神と人類の関係は、親子の関係さながらに変化していく。

 幼児が濡らしたパンツを換えたくて泣きじゃくることは誰にでも了解可能である。しかし、成人男性が同様の理由で、親に泣きついたらどうだろうか。たとえば不惑の四十を過ぎた大人が、年老いた母親に、自らが漏らして濡らした下着について文句をいうならば、どうだろう。おそらく心身を病院で診てもらうべきだ。

 聖書は、神と人類の関係を「親子」の比喩で捉えている。当然、親子の関係は、子の成長によって変化し続ける。また「家」の比喩も多用されている。何が言いたいか。

 現代人に対して神が求めていることは、大人として成熟することである。基本的に、神の直接的介入はない。神に訪ねる場合も、逐一、あれかコレか、といった士師記のような具体的な指示ではない。士師記の後には、王・預言者・祭司の時代が続く。さらに新約聖書の時代は、それらを成就する真実な王・預言者・祭司であるキリストが到来している。そしてキリスト以後の時代を担う使徒的教会の時代が始まって、二千年ほどが経過したのだ。

 だから、人類に求められていることは、赤子のように泣き叫び、神の直接的介入を願うことではない。幼児のように逐一、具体的な指示のために神の声を聞くことでもない。親の仕事の良きパートナーとして家業を継ぐように、キリストが要約し、体現した「神を愛し、隣人を自分のように愛せ」というテーゼを、大人として生活することである。

 実は、この士師記の理解にこそ、なぜ悪が存在するのか、という問いへの答えでもあるのだが、ここでは措く。

 大胆に言い換えれば、神が求めているのは、神なき大人の世界である。似たようなことをボンヘッファあたりが言っていたような気がするが、詳しくは、その分野の専門家に任せたい。

 創世記19章と士師記19章の違いが示すもの。それは、神から人類へ向けられた成熟への期待である。たしかに人類の罪深さ、西まわりのキリスト教でいう「原罪」の問題を読むこともできよう。しかし、士師記のバッドエンドはそれでは終わらないのだ。むしろ、そのバッドエンドこそがトゥルーエンドへの起点となっている。映画でいえば、いわば回想のち暗転の場面である。

 開始五分を待たず、以上のような結論を思いつき、あとの時間はあくびを我慢しながら過ごした。しかし、聞いていれば、だんだんと重要なポイントには近づいていくので、なかなか興味深い。誰かと聖書を読まなくなって久しいので、なかなか珍しい時間でもあった。最後、コメントをする機会があったので、上掲のようなことを述べたが、英語だったので少々雑になったのは反省点である。

 以上、約46億年ぶりに聖書を読む会に参加した話である。たまには誰かと聖書を読むのも悪くないかもしれない。

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