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クリスマスの坂道で

 東大路を自転車で上る。12月24日(火)夜7時のクリスマス礼拝に間に合わんと急ぐと、普段動かない中年の息はあがってしまう。白く消える体温に、京都が全体として坂道であることを思い出す。たしか北白川あたりは京都タワーよりも高いんだっけ...?緩やかな傾斜の向こうに、大阪や瀬戸内海、太平洋、南洋が広がっている。

 生来、楽をしたい人間なので、南に下って暖かな坂道のおわりで暮らしたい。そう思いながら、北を目指して車輪をこいでいる。吉田本町を過ぎて、農学部キャンパスへ。雪が降れば、このあたりから積り出す。

 普段、教会には出席できない身の上なので、今日は遅れずに出席したい。暗がりにかすむ吐息のように、自転車を漕ぐたびに目の前に過去が流れて行った。

 2014年の春、ぼくは沖縄で迷っていた。合格するだろうと思っていた修士の入学試験に落ちて、僅かに残っていた自信のすべてを失った。しかも落ちた理由が英語。三年近くアメリカで生活していたにもかかわらず、不合格。冗談は顔だけにしてよ…と言われそうな可笑しい話だ。

 「教会」でも行き詰まった後だった。元来、人間関係の機微に疎く怠惰な者には、聖職も教職も務まらない。そんなことも判らない程度に、ぼくはナイーヴで愚かだった。良くも悪くも「神の召し:calling」に対して、愚直であり、それゆえ神にも人間にも理解の足らぬ、黙ったまま、のろのろ動く牛のようだった。

 行きたい学び舎には入れず、戻る教会も場所もない。敗北し追い詰められた人間は、過去や思い出ににすがる。だから、ぼくは中高生の頃から憧れていた「沖縄暮らし」を思い出した。

 両親が5月の連休に家族旅行へ行きたいという。ならば、それまでいようか、と4月を沖縄で暮らした。「虹」の名を持つ小さなゲストハウスと大学知人に滞在し、久米島で物損事故を起こしたり、モーターパラグライダーを試して風に浮いたりして、結局、元々、入る予定だった京都は左京区の私設学寮へ転がりこんだ。

 翌年、自分と周囲への納得のために、「不合格」を得るために再受験した。不本意で残念な形ではあれ、ぼくの召命、神への仕事はここまで。悪人でさえ終わりの日には燃料になる、という役割がある。自己の願いや実存を超える神の計画を信じるからこそ、我が人生のほつれと破れは誤差の範囲。むしろ、解れて破れることこそ、神の御心である。

 そう思いながら、試験を受けた。おそらく、あまりに悲痛だったのだろう。試験会場までのことを、思い出せない。ただ試験問題に現れた「Jesus」という名の衝撃を覚えている。ぼくが最もこの世界で愛する名が、突如として異教の国の試験問題に現れたのだ。

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 一次試験、合格。まさか通るとは思っておらず、二次試験は「マリみて」オンリー同人イベントのために東京へ行くはずだった。さすがに受けないわけにも行かない。しかし、次は、ドイツ語と論文諮問である。ドイツ語は、一年前に途中で投げ出したまま、すでに忘れている。

 仕方ないので付け焼き刃で向かうことになる。同居人に頼み、150語ほどを選んでもらい、それを丸暗記。結果、とても翻訳とは言えないが、10語も判れば、何となく意味は取れる。白紙を回避するために、何とか埋める。とても合格するような内容には思えない。

 予想外のハプニングはあったが、自分の実力も判ったし、これにて一件落着。そう思って、合格発表当日を迎えた。怠惰と惰性への罪。不合格は神の審判なので、歩いて発表掲示板へと向かった。原付なら5分ほどで到着するところを、20分ほどかけてじっくりと歩く。雪が積もっている。神の裁きを噛みしめながら、到着し、自分の番号を探した。





 あった。



 あぁ、ついに頭がおかしくなってしまった。追い詰められすぎて、現実を改変するようになってしまったのだ。これは参ったな...。とりあえず携帯で写真を撮ってみる。写っている。ということは印刷ミスの可能性がある。とりあえず、ミスだろうから、まず事務室へ向かった。閉まっている。しかたないので教授の部屋をノックしてみる。誰もいない。

 困った。とぼとぼと歩きながら家に帰る。同居人たちに「どうだった?」と聞かれる。神妙な面持ちで戻ってきたので、皆、あぁ、ダメだったのか、と思ったらしい。事情を説明する。皆にも、携帯に映っている番号は見えているのだろうか。

「ハセさん、大丈夫ですって...w ぼくらにも見えます、合格ですから!」

 やっと、ぼくは合格していることを知った。

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 三日後、京都はよく晴れて、学内で虹をみた。聖書において「虹」は、神の契約のしるしだ。契約とは「関係を規定する」ということだ。ぼくはまだ少し遠い春の足音が響いているのを、たしかに聞いたのだった。

 帰りしな、たまに行く、北白川の教会の十字架をみて、泣いた。誰もいない交差点で、思わずひざをついて平伏し祈り、アスファルトにキスをした。

 あれから数年、修士を終えて、博士課程のコースワークを終えようとしている。ぼくの信仰にも、人間関係と生活にも、多くはないが、少なくない変化がいくつかあった。あの時みた虹の意味は、たしかに成就された。拙く、ツッコミどころ満載ながらも、なんとか博士論文の目次まで辿りついた。

 桃栗三年柿八年、面壁九年、もうすぐ2020年。通り過ぎていく過去を貫いて、待降雪から降誕節へと変貌した教会が見える。クリスマスの坂道で、ふと過去がよぎる。そういえば、泣いて祈ったよなぁ。

 女子修道院の前庭に入り、キャロリングが始まる。小学校低学年だろうか。可愛らしい姉弟がヨセフとマリアの格好をしている。師走の空の下、微笑ましくも温かい。しかし、苦しみ、十字架にかかり死ぬために生まれた幼子を記念することは、控えめに言ってもグロテスクだ。母マリアの心痛は言葉にならないものだろう。しかし、ぼくらはそれを言祝ぐ。

 今も昔も、きっと明日も誰かが誰かのために痛み傷み悼む。面とむかって釘の痕を見なければ、その脇腹に手を触れなければ、ぼくらは信じない。戸を閉ざして内にこもってしまう。しかし、そんなとき、成人した幼子は表れて言う。「平和があなたがたにあるように」 然り、すべての聖人と天使たちもいう。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、主の悦び給ふ人にあれ」

 だから、疑い深い使徒とともにぼくらは言う。「わが主、わが神」。

 天に栄光、地に平和、隣人に愛と怪。メリークリスマス。

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