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コロナと宗教とZOOM飲み

 コロナ禍で予定の変更とキャンセルが重なり、期せずして、昨日から長いGWウィークとなった。世間様と違うのは、連休とはいえ給与保障がない点である。仕方ない。

 さて、コロナのせいで、巷では「オンライン飲み会」なるものが流行っているという。十年以上前から、ニコ生なりツイキャスなり動画配信をし、遠くの友人知人とオンラインで連絡してきた身からすれば、何をいまさらという感じがする。要するに、みな飲みたいのであろう。

 アルコールといえば、以前よんだ鈴木大拙『日本的霊性』には、このようにある。

人間は何かに不平・失望・苦悶などいうことに際会すると、宗教にまで進み得ない場合には、酒にしたるものである。酒は中毒的に、生理的に、生命の肯定面を一時強調する。ある意味で酒に宗教味がある。

 大拙もちらりと仄めかしていたが、酒と宗教で最初に思い浮かぶのは、ペルシャの四行詩『ルバイヤート』であろうか。または、ギリシア/ローマの神バッカスを思う人もいるだろう。

 『日本的霊性』は「酒と宗教」を並べてのち、日本の古文にみられる宗教性を論じていくのだが、初めて読んだぼくは、ここでアホらしい...とこの本を投げた。古文の解釈以後を読むのは、随分あとになってからだった。

 酒と宗教の関係を考えてみる。どちらも酔い過ぎ注意かもしれない。聖書には、酒に酔わずに聖霊に酔え、といった記述もある。とはいえ、宗教的泥酔状態にある人間というのは、まあまあ危険だし前後不覚にもなっているのが通例だから、聖書を一カ所だけ抜いて習慣化するのは無意味だと思う。

 たとえば、宗教的に泥酔した欧州を考えたのが宗教改革だったと言えるなら、対して、飲んだくれた世俗の最適解がヴァストファーレン条約以降の欧州共同体なのかも知れない。どちらにせよ、当時の欧州で、安全な飲料水は普及していなかったので、誰もがうっすらと酔っていた。

 すなわち、ほろ酔いで社会を回していた。だからこそ、欧州の底に、葡萄酒をひたすら高唱して、果ては神の血とまでいうキリスト教が根付いたのかもしれない。酔いが醒めれば、人権に目覚めてリベラルになっても可笑しくはないだろう。

 対抗宗教改革の結果、日本にキリスト教がもたらされた。あれから約400年以上たった。惑星表面を電算ネットワークがつなぐ時代に、初めてのパンデミックを迎えた。ほぼ教会は開いておらず、せっかくの連休なのに、参加できる教会があまりない。

 そこで思いついた。たとえば、動画配信している国内のオンライン礼拝を全部ブラウザ上に開いて見た場合、それは、どう理解されるのか。一度に複数の礼拝に出たことになるのか。何をどうすれば礼拝に参加したことになるのか。これはプロテスタント的な問題かもしれない。

 他方、カトリックや正教会の問題としていえば、果たして、聖なるパンの祝福の効力は、そもそも、どれくらいの範囲に及ぶのか。まさか1週間しか効力が保たれないわけではないだろう。となれば、永遠なのか。サンピエトロの広場で教皇フランシスコが全世界同時多発ミサをすれば、そこらのパンは神の身体となるだろうか。

 「祝福」は方角が重要とも聞いている。ならば、向きを変えれば、地球の裏側にいても大丈夫なのか。ならば月や火星の場合はどうなるのだろう。アルファケンタウリなどの別星系でも可能なのか。

 コロナ禍が宗教にバグをもたらしている。日常では想定外の例外的で歴史上では散発していた事態が、より拡大されてリアリティをもったと言える。

 コロナと宗教とzoom飲み。体積への実感が問われている。そういえば、新約聖書で手紙をいくつか残したヨハネは、こう書いている。多くの神学校でギリシア語を習うとき、最初に開く書物である。

 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について―

 技術革新により、物も声も言葉も映像も、ほぼ擬似的に同期が可能になった。心や言葉が届いた気になる時代、コロナ禍で読む聖書の一節は、ぼくらの身体の輪郭を伝えている。存外、声が届き、肉眼で確認することが出来て、手で触れるほどに近しいところに、バイタルなものがあるのかもしれない。少なくとも、贔屓にしているいくつかの喫茶店のメニューの味は「空間」の意味をわきまえない通話アプリなどでは伝わらないのだ。

 昼に食べたとり皮バターライスの味わいを、のどに流し込むモレッティのコクが、自粛解除を促している。

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