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伝道したい人たち

 先日、たまたまキリスト教の中で「伝道しなくてはならない」と声高にいう人たちの文章を読む機会があった。そう思うならば「やればいいじゃないですか」としか言えない。大衆に向けてやるならば、テレビと新聞の広告を打てばいい。金が足りないならば稼げばいい。問答無用、誰かれ構わず、満員電車で話しかければよろしい。伝道が神の使命だと他人に宣うならば、仕事しながらFXをやり、夜中は肉体労働にいそしんでも稼ぐべきである。広く知らしめるならば、それが最も手っとり早い。またはネット時代にふさわしく、炎上すればいい。手段も方法も確立されている。

 しかし、きっと伝道したい人たちは「それでは伝道にならない」というだろう。そして「教会に来なくては」「洗礼を受けて教会員にならなくては」「毎週奉仕に活動的な信者にならなくては」と、隠れた要求は過大になり、本性が露わになる。自分では手を動かさず何もせず、他人に神の権威をもって何かを宣う人たち――だいたいそれらはプロテスタントの牧師などが多いが、彼らはそうやって信者を搾取する。金銭と時間と精神を奪うのである。どんな宗教団体にいっても同じであり、よく見かける馴染みの風景だ。

 伝道したい人たちは、結局、彼らが思う「伝道」を実感したいだけであって、真実に伝道のことなど考えていない。なぜならば、最終的な「伝道」の可否と内実は、誰にも判断できないからだ。どうすれば「伝道」の成否を知れるのか。一分待たずに答えが出る問いだ。神にしか分からない。にも関わらず、それを判断できると断じる彼らこそ、まず「伝道」されたほうが良いのではないか。一信徒に過ぎないぼくのような者は愚考してしまう。

 余談ながら、いわゆる「伝道」という問題を考えるならば、カルケドン全地公会の四つの否定辞「混合せず、変化せず、分離せず、分割されず」が重要になるだろう。現代における改革派正統主義の一つの成果、すなわちA.カイパーからファンリューラーに至る系譜の思想である。

 すなわち、キリスト論における二性一人格の教理が、聖霊論においては正統教理となり得ること、もっと言えばキリスト論的に異端となる多くの教理が、聖霊論においては正統になるということである。たとえばキリスト論における「仮現論」は異端であるが、救済論後半から教会論・終末論前半における「仮現論」は正統どころか事実である。名前はどうでもよいが、これを「聖霊論的反転」とでも言おうか。端的にいえば「一と多」の逆転であり、統一性から多様性への終末論的変換である。

 何がいいたいか。伝道とは、聖霊論的歴史展開である。したがって、カルケドン全地公会の否定辞の意味は逆転するのだ。伝道の本質は、混合し、変化し、分離し、分割されることにある。否定辞が再びポジティブに転じるとき、それは究極的到来であって、もはや伝道が無意味となる段階である。

 つまり、「伝道」とは、このように神学的な仮庵としてしか語り得ぬものである。ならば、そのようにしか語れないのだ、とぼくは思う。まあ伝道したい人はすればいい、としか言いようがない。ただ、もし他人に「伝道しろ」と宣う以上は、何かしてもらわねばならない。究極の権威を着て語る以上、彼もまた限界はあれ極限を見せねばなるまい。たとえばyoutuberとしてアシジの聖フランシスコをやってみれば、おそらく成功するだろう。それくらいの意気込みを見せてほしいものである。

 とはいえ、誰もそんなことをしないのだから、おそらく伝道したい人たちは、本当は伝道したいのではないのだろう。何か別の動機と結果が隠れているのかもしれない。

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