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属性の孤独

 昨日朝シャワーを浴びながら、「あぁ、ぼくは孤独なんだな」と思った。平たく「さみしい」と言い換えても構わない。少し恥ずかしくはあるけれど。では、何がさみしいのか。「属性」が重なる人があまりいないことが寂しいのだ。

 属性とは、ある事物のもつ性質や特徴である。「闇/光」属性、固有能力「火/水/土/風」属性など、性格や系統の表現としても使われる。キリスト教神学においては「神の属性論」という小項目があり、そこでは「存在」もまた属性として扱われる。そう思えば、「神の孤独」も考えられるかもしれない。異端的に過ぎるが...、余談に逸れた。

 属性が重なる人がいないからさみしい、そう思った。ここでいう「属性」とは、要するに、趣味や嗜好、生活圏などの重なりである。普通、人格はこれらの属性の複合によって成立している。無論、自分と完全に「属性が重複する」誰かはいない。ただ、生のフィールド、生活の地平とも言える「属性」を、もっと他人様と共有なり分有してみたいと、少しだけ思うのだ。

 ぼくのもつ「属性」は、大きなところから言えば、人類の男性/キリスト教徒である/日本語話者であること、などが挙げられる。次に、年齢、出生地、生活圏内などが来るだろう。とはいえ、問題にしたいのは、そんな一般的属性の話ではない。もう少し小さな属性についてだ。

 たとえば、キリスト教「神学」/「キリスト教」学、アニメとSF、メイド喫茶、沖縄、古書蒐集などである。こう並べてみると、要するに趣味なのだが、端的な「趣味の仲間」が欲しいわけでもない。ぼくにとって、キリスト教「神学」/「キリスト教」学は、根源的な自画像に関わる問題、いわゆる実存に関するものだ。だから、その地点から何か共有できる話がしたい。

 思えば「福音主義・福音派」という属性が「キリスト教徒」に拡大・転換して以来、もともと信仰の友であった人々とは交友するのが難しくなってしまった。実は、福音派が掲げる「旧新約聖書66巻は神の言葉であり、信仰と生活と教会の唯一にして絶対の無誤無謬の規範である」というテーゼについて、ぼくは未だに有効だと考えている。無論、様々な概念操作と定義の上であるが。

 しかし、これを同じように有効としている人々からは、ぼくの立場はそうは見えないだろうし、とくにテーゼに関係ない人から見れば「俺は凄いんだ!構ってちゃんでしょ?」と要約されるのだろう。

 仕方ない。しかし、やはり、さみしいことだなと思う。近代と共存しつつも相克するキリスト教的実存から眺めるSF作品やアニメの世界、メイドカフェや怪談、沖縄や古書の風景は物凄く面白いのに、それは誰にも伝わらないのだ。キリスト教の「本質」とは無関係な「属性」として捨てられてしまう。

 しかし、キリスト教が世界や宇宙の原理である以上、その本質は、あらゆる時空間において滲み、湧き出るものではないのか。しかし、こういう問い自体が最初から棄却されたセカイへの寂しさ、そういう悲哀を感じている。

 今朝、アスペと見受けられる人物と働く人の感想noteをみた。いわゆる疾病や器質的な気質という属性も、似たような属性の孤独を覚えているのかもしれない。比べるのは失礼に過ぎるのかもしれないが、何となく似ているのではないか。

 「さみしさ」は、共同体への帰属願望なのか。または他者への欲望なのか。どちらとも言えるが、やはり集団なり組織なりに属することは、ぼくにとっては負担が大きいのも事実である。だからこそ、可能な限り、人間関係が少なくなる仕事を探している。そうすることでしか平穏に暮らせない。梅田も東京も、あの雑踏は端的に不快なのだ。しかたない。

 昨晩から急に寒くなったので、ついに長袖をはおった。たぶん5月以来だろう。約半年ぶり、長い夏が終わって短い秋となる。京都は、紅葉で秋が終わるので、今から11月末まで一ヶ月半ほどが新しい季節。よく晴れている。

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