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朝に読むことは難しい

 SNSなどをダラダラと読むのは心身に悪いので、聖書でも読もうかと思った。が、ぼくも一応働いているので、そんなに好き放題時間があるわけではない。博士論文も書かなくてはならない。原文をランダムに表示してくれるプログラムも悪くないが、分量が多いと訳すまで至らない。

 で、今朝は、ブラウザで文語訳聖書の詩編1をさっと読んだ。これくらいなら続くかもしれない。とはいえ、きっと何度もやり方は変わるだろう。とにかく有意義と思われるものを読むほうにシフトしたい。

 ぱっと読む。気がつけば連絡を確認し、通常業務である原稿をひとつ上げていた。なかなか余韻に浸ったり、沈思黙考するまでにはいたらない。難しいものである。

 結果的にフリーランス(バイトかけもち)になったので、時間が細切れになってしまう。アレを終わらせたら、コレに手をつける。次にあれを修正し、今度はそれをやっておく。こんな具合で、小さな手順を複数重ねて行きながら時間が過ぎてしまう。なかなか、朝ゆっくり読むことは難しい。

 二十歳の頃、ランチタイムの接客をやったが、その仕事は良かった。当時、東大阪に住んでいた。15分ほど早めに原付で大阪市内へ向かって、止めた原付に座って聖書を読んでから就業していた。あの頃の友人はいまだに友人でいてくれて、昨晩、年末に会わないかと連絡があった。そんな感じで、毎朝、PCに座って仕事をする前に、伝統的なキリスト教エートスを実行したい。

 今朝読んだのは詩編1篇。軽く三桁は読んでいる内容だ。元々は2篇とひとつながりだったとも言われる。委細は措く。「幸いなるかな」で始まる有名な構文である。1節だけ概説しよう。

 日本語はわりに語順が自由なので、ヘブライ語をそのまま直訳してみた。語族レベルで距離のあるギリシア語も同じく語順が自由なので、翻訳としては何となく似てくるかもしれない。

幸いなる者よ
    悪い意思を行かぬ、
    罪人の道に立たぬ、
    嘲りの場に座らぬ。

 一瞥して訳すと、こんな感じ。「幸いなる者」を描写するのに、三つの否定辞が続く。逆説的に「不幸なる者」が浮き彫りになる。それは悪い意思を歩いて、罪深い道に立って、罵るために腰を下ろす人だ。日本語風にいえば、幸いな者、その人は~しない、となる。英語風にいえば、幸いな者、それは~しないと関係代名詞を挟んで、三つの否定辞が続く。

 これ、直接的に「Twitterを開いて、タイムラインを眺めて、ムカついて何かを書く」ってことを意味していないはずなのに、あまりに当たっているので笑ってしまった。

 この1篇1節のあとには、こう続く。この三つをしない人が、主なる神の教えを昼も夜も喜んで過ごす。その人は、豊かな水辺に植わった樹木のように実を結んで生い茂る。しかし、あの三つをする人は、もみ殻のように吹き飛んで消え去ってしまう。彼らの言葉は、神の審判の前には到底立ち仰せるものではない。主なる神は、三つをしない人を知る、そして三つをする人は壊れるだろう。超意訳するとこんな感じである。

 さて、朝に読むのは難しい。意外に信心深いぼくとしては「いきなり、こんなことを言われたら、やっぱり続けたほうがいいんではないか」と思った。壊れる前に、嘲りの場から立ち上がり、道から離れ、悪い意思から速やかに戻ることが重要なのかもしれない。なんだよ、聖書……おまえ、意外とアクチュアルだな。

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