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生きていることのどうしようもない空しさについて

空の空、すべては空。

 アメリカにいた頃からネットに常時接続するようになった。以来、たまに深夜一人でニコニコ動画のBGMを聞きながら、無音チャット放送に泳ぐコメントを眺めている。水槽の魚を見ているような、この時間が好きだ。だいたい深夜から未明にかけて、一般人の多くが寝てしまう時間の、ささやかな楽しみである。東北地方や北海道のような緯度の場所だったので、どちらかといえば寒い日が多かったかもしれない。築200年近い、現役の歴史的建造物の屋根裏で、ぼくは孤独だった。

 いまでもそんな時間はある。たとえば、いまのような。

「空の空、すべては空」これは古代イスラエルの王、ソロモンのことばとして伝承されている。たしか新改訳聖書の翻訳だ。文語訳の伝統「傳道者言く 空の空 空の空なる哉 都て空なり」を継承したのだろう。大乗仏教の豊穣な実りの中に、信ずる福音を潜ませようとした先達の労苦がにじむ名訳だ。新共同訳聖書は「なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい」と訳出している。 

 実は、仏教の空とキリスト教でいう空は、どちらも「虚無」を意味しない。つまり「空」ということは「無」であることを意味するのではない。

 仏教における「空」は、世界の在り方の説明だ。この世界のあらゆる事柄が、全てが縁起という関係性の中に存在しており、従って、独立自在ではないこと、その物事の在り方を「空」と説明する。世界をつぶさにありのままに観察した結論が「空」という表現になっている。世間一般でいう、市井の人々が感じる虚無感という意味ではない。

 では、キリスト教における、聖書における、この「空」とは何だろうか。この語「 הֲבֵ֤ל (Ecc 1:2 ):ヘベル」は、元々、水蒸気や湯気、一息を意味する。ふっとため息をつけば、一瞬で消えてしまうような、そういう蒸気のようなもの。それを「空」と訳出した。

 空の空、すべては空。

 それでも、ぼくは、この日本語に思わず頷いてしまう。深遠な宗教的真理への承諾ではない。疲れた中年が俯くような、錆びれた老人が居眠りするような、得るものよりは失うものが大きくなったことを知り、生きていることに罰を感じるような、ばつの悪さ。

 研究を進める時間もなく、疲れ果てて一日が終わり、休めたと思ったら、明日はまた仕事。繰り返される日々の労苦は、湖泥のように降り積もり、やがて化石のように折り重なっていく。そのいびつな硬さを人間の輪郭というのは、あまりに切なくさみしい。朗らかな笑顔の陰影は、夜の暗さの兄弟なのか。

 人が生きることの空しさを、たまに考える。数十年ほど前に生れて、大気の循環に参加して、ほぼ百年を待たずに、そのシステムからログアウトする。僅かな、瞬く煌きのなかで、何を為して何が残るのか。

 欧州と歴史を震撼させた雄牛の咆哮、ある聖人に時の教皇は問うた。「いまや、聖ペテロのように『金銀は私にはないが』とは、もう教会は言えないのう」、聖人は答えた。「はい、教皇様、仰せの通りにございます。しかし教会は『ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい』とも言えなくなりました」。たしか、トマス・アクィナスの逸話だったように思う。

 多くの事柄は金銭と時間があれば、ほぼ解決する。しかし、それでも解決しないものもある。それは、往々にして、顔をみせる。その顔は、闇であり空しく暗い。怏々さがそこから出ているようにも感じられるし、吸われているようにも感じられる。生きたままブラックホールに飲まれることへの恐怖の肌触りのような、何か、いやなものと目があうことがある。

 生活の労苦は辛く厳しい。悲しみは多く、怒りは絶えない。空の空、すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。

 繰り返す毎日の果てに、この分子の結合と震動と分離の向こう側に、ヴァルハラやニライカナイがあるのだろうか。それとも、巨大な輪廻が轟々くるくると回っているだけなのか。天の御国、神の国とは何なのか。

 明日の生活に不安のない人は幸いだ。しかし、時折、顔を見にくるあの空しさの手の指先が、生活の不安と重なる人は可哀そうだ。きっと立っていられない。哲学者カントが要請した終局は、ソロモンの格言と通底している。

 空の空、すべては空……わが子よ。これ以外のことにも注意せよ。多くの本を作ることには、限りがない。多くのものに熱中すると、からだが疲れる。結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。

 明日も生活のために働く。良いと思った書籍は高くて買えない。稀覯本を残したいと思っても手が届かない。小学生のころ、大きな4tトラックの屋根にのぼり見上げた夏の夜空の星は、あまりにも近くて、空振る手が不思議だった。虫取り網をかざしても、満天の蛍はすり抜けてしまった。いまは星さえ見えない。見ようともしていない。

 この日々の向こうに何があるのだろう。雨音がBGMをわずかに揺らしている。誰か、この雨音を聞いているのだろうか。

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