怒りの賞味期限
人間、おじさんオバサンになれば、思い出すだけで腸の煮えくり返るような出来事や人物が少しはあるだろう。ぼくにもある。が、最近、ある記憶については、そこまで思わなくなった。
怒りが乾いた。または、その湿度が蒸発してしまった。とくに「怒り」を持続させたいとは思っていない。だから、怒りが乾くのは、幸いなことだと思っている。
生来、物事に億劫で怠惰な人間なので「怒り」続けるのはしんどいな…と思っていた。もちろん、怒りの対象と相対したいとは思わない。新たに不愉快になる必要はない。
ただ、とうに過ぎていた賞味/消費期限を思うと、すこし可笑しい。なぜ、あんなモノやヒトに対して時間と感情を費やしてしまったのか。過ぎし自分を思うと「バカだなぁ」と呆れて笑ってしまう。
聖書によれば、このようにある。
汝ら怒るとも罪を犯すな、
憤恚を日の入るまで續くな。
惡魔に機會を得さすな。
これを直訳するとおもしろい。「怒れ、罪を犯すな」となる。両方とも命令形だ。前後を繋いで解釈すれば「罪を犯さないように怒れ」と、少しマイルドになるかもしれない。
ちなみに「罪」とは、神の律法に背くこと。神の律法とは、いわゆる「モーセの十戒」のことだ。十戒の前半は、神との関係について、後半は対人関係について記している。
「十戒」後半の内容は、父母への敬慕、殺人/姦淫/窃盗/偽証/羨望の禁止である。つまり、これらに抵触しない限り、怒ってよい。むしろ「怒れ」と命じられている。
抽象化して言えば、「父母への敬慕」とは、神の主権を人間として受け入れることを意味している。誰も親を選べない。出自について、自らの「所与性」については受け入れるしかない。天気と同じである。自分で選べないものには文句を言っても仕方ないだろう?ということだ。
「殺人/姦淫/窃盗/偽証/羨望の禁止」は、生存権/性/所有権/法的地位の遵守/後天的性質の保護」と読み替え可能である。キレてもいいが殺してはならない。犯しても、盗んでもいけない。デッチ上げで訴えてはならない。自身の分を弁えよ。
「憤恚(ふんい)」とは、怒り、恨みのことだ。何かにキレてもいい、夕焼けが終わるまでには、恨むのをやめて感情を治めよ、という意味である。
ただし、怒りの矛を収めるために、上記のような「罪を犯してはならない」。すなわち「復讐してはならない」、なぜなら復讐は神のものだからだ。神の復讐は容赦ない永遠の火による審判である。
「キリスト教的な怒りの構造」は、このようになっている。しかし、寝て起きて忘れられるような「怒り・恨み」は少ない。復讐したくなり、自身の分を越えた振る舞いに引かれてしまう。しかし、その結果は悪魔に機会を与えることになる。
聖書における「悪魔」とは、「訴える者」である。ヨブ記を見れば判るように、悪魔の仕事は、本来、責任のないところに「人格」を見出して、それを罪として訴求することである。つまり「悪」の本質的な一つの定義は、無関係な人を「責任者」に仕立てて訴追し裁くことだ。
つまり「悪魔に機会を与える」というのは、このように、無関係でいられるにもかかわらず、怒りの対象に煽られて、自らもまた誰かの怒りの対象となることである。ミイラ取りがミイラになる、被害者が加害者に変質するのだ。
だからミイラになる前に、日が沈むまでには治めよ、怒りを制御せよ、と教えられている。
たしかに、ぼくも何度も怒りの対象を呪っていた。死んでほしい、悲惨な目にあってほしい、頭を車で踏みたい…、暗い思いが色のない炎のように揺らめいた。
しかし、呪いの時間は無駄である。世界は広く、時間は有限である。楽しいこともあり、旨いメシがある。相手を呪うだけ自分が損をする。1円の得にもならない。それが「怒り」である。
だから、夕暮れには収めてしまえ、と言われている。怒りの賞味期限はその瞬間だけ、消費期限はせいぜい一日である。常温では牛乳よりも腐るのが速い。冷蔵庫に入れても、せいぜい2日ほど。だから、さっさと開けて処理しなくてはならない。
冷凍保存してもよいが、そんなものは使い道がない。電気と場所の無駄である。
そう思うと、なぜ早々に処理して捨てなかったのか、と可笑しく思うのだ。賞味期限の切れた「怒り」は、冷凍庫の奥底でミイラになった元・刺身のように、滑稽なものである。
東京へ仕事で向かう道すがら、時速250km超で過ぎ去っていく雨粒と車窓の底に、そんなことを思った。どうやら怒りも過ぎ去っていったようだ。
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