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原罪について

 友人と「原罪」理解について話す機会があったので、少し考えている。個人的な話をすれば「原罪」とは、ぼくが最初に触れた、もっとも了解可能な教会の教えだった。

 ぼくにとって思春期から青年期は、自己を巡る懊悩と煩悶の別名である。だから「原罪」とは、自己否定への宗教からの肯定であり、自己批判の外なる根拠だった。いま思うと、いささか悲観的に過ぎる若きウェルテルの悩みとでも言おうか。ナイーヴに過ぎたように思う。

 皆が仕事を持ち、家庭を持ち、車を買う二十代を費やして、ぼくはキリスト教の教理体系を学んだ。その中で改革派教会の伝統における「全的堕落」の教理は、ますます「原罪」を確信さしめるものとなった。

 「全的堕落の教理」とは、原罪の効果についての教説である。「カルヴィニズムの五特質」、または頭文字をとってチューリップ(T.U.L.I.P.)と呼ばれたりする。もっともTULIP程度では「改革派教会」を説明したことにはならない。本筋ではないので委細は措く。検索すれば、すぐに判るだろう。

 要するに「全的堕落」とは、救いと神に対する人類の無能力について教えている。言いかえれば、一つのクリアな人間観、人類理解なのだ。従って「原罪」を考えることは、「人間理解」を問うことになる。伝統的な組織神学の項目(神/人間/キリスト/救済/教会/終末)が、人間論を第二に掲げるのも頷ける。つまり、聖なる神に対して、創造され堕落した人間の問題が扱われることになる。

 では「原罪」とは何か。多様な聖書的伝統であるキリスト教において、意見は分かれている。神が善なる意図と目的をもって人を「創造」したことには、全ての伝統が一致する。しかし、その創造のされ方において、意見の食い違いがある。

 つまり「創造」の内容理解の差が、そのまま「堕落」の意味を規定する。言いかえれば、「神の似姿」との距離が「堕落」の内容を決める。「原罪」とは、「堕落」理解の一類型である。

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
(創世記1章26-27節 口語訳1955年)

 上掲箇所は、創造と堕落の教理を「かたち(image)」「かたどって(likeness)」という語彙で接続している。一般に「神のかたち」と呼ばれる教えだ。では、多様な聖書的伝統であるキリスト教は「神のかたち」について、どのように考えているのか。

 厳密な釈義と議論は専門家に任せる。ぼくなりの大まかな見立てを語っておく。なお、各伝統において「人間存在を一体的かつ総合的に理解すること」は大前提である。また時代、地域、言語によって千姿万態となるのは言うまでもない。

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 さらっと説明しておく。まず使用言語と語彙について。正教会はギリシア語ベースで神学を構築し、神が人類を「神の像と肖」に創造したと理解した。神は人間の成長を前提しており、出発点を「像:イコン」とし、到達点を「肖:ホモイオシス」としている。

 ラテン語で発展したローマ・カトリック教会の思惟はこれを「Imago Dei:神のかたち」として理解している。西方ラテン教会の分裂によって、ローマから出たプロテスタント諸教会は、原典語彙を翻訳することでヘブライ語のツェレムとデムートを「神のかたち」と呼んでいる。ツェレムが【像】イコンであり、デムートが【肖】ホモイオシスである。英語にすれば、像はイメージ(image)、肖はライクネス(likeness)となろう。

 また思想史としては、西方ラテン教会(カトリックとプロテスタント)の間で、伝統的な三区分(anima 魂、spiritus 霊、corpus 身体)の理解を巡る議論があったが、煩雑になるので、ここでは措く。

 大まかにいえば、神は人を善いものとして、また成長するものとして創造した。しかし、堕落は、その成長する善性を阻害する結果をもたらした。植物が太陽へと葉を広げるように、人は神へと向かって成長していくことが出来なくなった。

 この善性の喪失割合と説明の仕方が各派によって違うのだ。正教会は、「像」の損壊と残存、「肖」の喪失――堕落を認める。しかし、それを「原罪」という語を使って説明しない。無論、人類全体のもつ悪への傾き、個々人の罪の存在を認めている。

 一方、西方ラテン教会は、「原罪」で以て、人類全体の堕落を説明している。カトリックと一部プロテスタントも、正教会のように「人間存在の善性の損壊と残存」を認める。

 他方、一部プロテスタントは「全的堕落」として、神と関係を持てるほどには人間存在の善性が残っていない、と理解する。すなわち「原罪」は、西方ラテン教会の伝統において「人間存在の善性の損壊と残存」を決めるものである。

 ぼくは西方ラテン教会プロテスタントの伝統の中で、最初の神学教育を得たので、出発点は「原罪による全的堕落」だった。しかし、いまは少し違う。キリスト教の全体が言うように、世界と人類に「悪への傾き」があることは、聖書と伝統とともに、それらの前に平伏して同意する。

 ただ21世紀の日本人として、少し距離をとって眺めているのも事実だ。物理的・歴史的・文化的に距離ある「キリスト教」と、どう付き合えるのか。日本語で、この日本人の身体で、ぼくの生活で、どのように受け止めればよいのか、考えてしまう。疑っているのではない。信じているからこそ、解像度を上げて、能うかぎり知りたいのだ。

 神は、地中海弧の土着文化を選び、彼らの身体と言語と文化を用いて、人類と接触した。以来二千年、神との接触は大西洋弧へ、太平洋弧へと雨のように降り注ぎ、その複雑な波紋の連鎖を重ねて、瀬戸内海の平野部に生まれたぼくにも響いた。

 だから安直に大雑把には考えられない。かといって、厳密に釈義し、徹底的に思考するほどの能力もない。しかし、海面上にたまる雨水を見分けることが生存に直結するウミヘビのように、ぼくにとって、また人類にとって「原罪」や「悪」というテーマは死活問題のはずだ。だから、そこには何かしら本能的で根源的な、または超越的な見極めと解決があるのだと考える。海水と真水を本能で見分ける被造物のように、ぼくの内なる人類性が何かを訴えている。

 プロテスタント文化圏とその影響下にある国々では「原罪」の教説は、あたかも重力のように強力だ。しかし、ぼくは日本語キリスト教に限っていえば、そこに致命的な問題があるように思う。たしかに「原罪」を否定することで、西洋近代的自我は起動する。また「原罪」を再解釈することで西洋近代的自我は批判性を獲得するのだろう。

 しかし「西洋近代」が持つローカルな過誤と陥穽までも、ぼくらは真似しなくてはならないのだろうか。西洋近代と癒着融合したキリスト教のマナーに従うことが、キリストに似ること、イエスに倣うことではない。西洋近代の像と肖からではなく、神のかたちから、この国のキリスト教のかたちを考えたいのだ。

夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
(ヨハネ福音書21:4)

 だから「原罪」について考えている。21世紀の太平洋弧に降り注いだ雨粒の一つとして、どのような弧を描いて、波を起こそうか。人類史を通じて現れた無数の男女というグラデーション、そこに現われた「神のかたち」の回復とは何を意味するのか。人がもつ悪への傾きとそれを覆す神の力、その日本語キリスト教における可能な物語について、思いを馳せている。

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