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セマイ世界

 管見の狭さについて、かなり自信がある。自信をもって言うことではない。しかし興味がないから仕方ない。ぼくが平穏に楽しく暮らすためには、不要な情報が多すぎる。

 ぼくにとって「了見が狭い」と見える内容がある。たとえば、5ch掲示板などで語られる、ある会社の内部事情、またはtwitterでいま話題になっているような事柄だ。無論、これらはTVのワイドショー番組などより、遥かに鮮度と精度が高い。荒削りな、生の情報をそのままテーブルに置くから、流通に備えて加工していないからこその、局地的な鮮度と精度がある。

 とはいえ、そういうものを見聞きすると「あぁ、狭い世界だなぁ」と思ってしまう。同時に、その刹那、「そういう自分もまた随分と狭い世界しか見てないし、見えないよなァ」と呆れてしまう。そして誰にいうでもない愚痴を、心に抱えるのが嫌でゴミ箱に投げるようにSNSなどに書いてしまう。事実として、悪口に同意してもらう経験は、病的な快楽がある。ただ、それは本人を蝕むものだ。

 こうして、ひとしきり御し難い「人間らしさ」を実感したら、まあ、こんなことは酒でも飲んで忘れるしかないな、と思う。もっとも酒など呑まないのだが。

 結局、それぞれが見えている現実は違う。見えている色、聞こえる音、気温の寒暖、匂いの過多、味の濃淡。そこから立ち上がる現実は、似てはいても同一ではないのだろう。だから、言葉という曖昧な依り代でアタリをつけて語るしかない。数値化も一つの手段ではあるが、数値とは便宜上の基準であって、ほとんど意味をもっていない。言語も数値も記述の手段に過ぎない。

 ただ、そんな中でも、言語による確かな関係構築を行えるときがある。たとえば、研究論文とそれへ建設的批判と応酬、またはスタンスの近い信念を持つ者同士の胸襟を開いた会話だ。だから、そういう距離のある「関係」を幾つか持っておくと、それぞれを相対化できる。多趣味であればよいという話でもないのだが、自分の足場をタコのようにウニョウニョと広げておくと、少し楽になる。

 残念ながら、そういう「良い関係」は極稀にしか存在しない。だから、あまり期待はしない。期待はコストであり、そのコストはやがて何かを圧迫するのだから。

 そんなことをぼんやりと思って、今日も自分なりのセマイ世界の戸をカギをかけず3cmだけ開けて、画面を見つめている。自分だけが座っている喫茶店の小さな食卓のように、固定されながらも開かれている。加齢した「ツンデレ」など、まさしく文字通りのゴミでしかないな、と自嘲的に思う。

 台風が来る。物理的に開けておくのは致命的だが、比喩としての半開きは、風を待っているに等しい。そこまで緊張感がない。そんな台風前の夜である。

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