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聖なるもの

 礼拝に出席しなくなり久しい。とくに必要を感じないからだ。蛇足ながら説明しておくと、いわゆる教会の公的集会をプロテスタントは「礼拝」と呼び、カトリックと聖公会は「ミサ」、正教会は「奉神礼」と呼ぶ。礼拝に出席しなくなり久しい。

 出ない理由はシンプルで「聖なるもの」への態度が違うからだ。プロテスタントは原理上、また歴史的にみても聖俗二元論を排する向きがある。ぼくは、この世界に「聖なるもの」とそうでないものの区別があると信じている。だから、もう礼拝には行かないだろう。なぜなら聖俗の区分がないならば、何をしていても礼拝となるからだ。

されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりて汝らに勸む、己が身を神の悦びたまふ潔き活ける供物として献げよ、これ靈の祭なり。
ローマ書12:1

 「これ霊の祭なり」、言い換えれば「あなたがたのなすべき礼拝です(新共同訳)」となる。文語訳と新改訳では礼拝=祭の質に関わる語を「霊の/霊的な」と訳出し、新共同訳は「なすべき」とした。ギリシア語「ロギコス」なので、素人ながら「理に適った」という意味のように思う。新約学者ではないので詳しくは分からない。つまり、生活の全体を聖なるものとして神に捧ぐことが礼拝ならば、そもそも教会に集まる必要がない。これはこれで理に適ってしまう。
 
 一方で、ミサか奉神礼には出席したいと思っている。しかし残念ながら土日に宿直をしているので、まず適わない。とはいえ、知的身体的重荷をかつぐ人々の洗濯メシ風呂が土日の内実なので、これは旧約の規定に照らしても十分に礼拝行為になり得る。だから、何となくそれで満足している。

 話が逸れた。教会に行かないことの言い訳が主題ではない。主題は「聖なるもの」である。

 「聖なるもの」の欠片は、そこら中に散りばめられている。新緑を濡らす朝露のように、神の善を反映して誰かの善の中に見て取れる。神の名があるがゆえに善が存在するのではない。善のあるところに神が隠れている。

 この見方は、そのまま人類全体を未必のキリスト教徒とみなし地球を包摂してしまう。人間の内外を善が貫くことで、内在と超越が触れている。そこから「聖なるもの」の香りが漏れている。

 滲み出す善は、その強い香りのゆえに人々を惹き寄せてやまない。だから、そこに井戸が作られ、やがて温泉街となることもある。しかし善の性質は香りに似ていて、蒸散してしまう。温泉も枯れることがある。

 ぼくは容姿も思想も大振りなので、風呂などに浸かると水が溢れてしまう。だから水が貴重な枯れつつある地域では、気を遣ってしまうし、正直にいって歓迎されない。かと言って、公営浴場には時間の決め事などがあるので、生来の怠惰さゆえに向いていない。結果、温泉街から遠い、人里離れた場所で、独り滲み出す善に浸かるしかなくなってしまう。

 とはいえ、小さな野良温泉に浸かっているだけでは食えないので何か仕事をせねばならない。だから今日も軒先の道路に打ち水をしている。人知れぬ湧水を汲み出して運び、それが跡形なく蒸発することを知りながら、わずかにアスファルトを濡らす。同時に、いつの日かアスファルトのヒビ割れから善が雑草のように萌出でることを知りながら水を撒いている。

 こうして「聖なるもの」が来る。やがて、それは大水が砂漠を打つようにカインの文明を毀ち、荒野に道を、荒地に河をもたらすだろう。ぼくは、その日を待っている。

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