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沈黙の理由
コロナが蔓延し始めたころ、不明瞭な社会の風潮に人々が流されていく様子をみて、戦中、多くの人々が「あぁ、これは何を話しても無駄だ、黙ってやり過ごすしかない」と思ったことに納得した。いいかえれば、面従腹背で嵐の通過を待つという選択である。
先日、匿名の鍵アカウントで、踏み絵マットの写真を公開した。すると、突然ダイレクトメールが届いた。曰く、「私は違いますが、キリスト教徒の方も見ているので、そのようなセンシティブな画像をSNSに上げないほうが良いのではないでしょうか」とのこと。
正直にいえば心底面倒だし死んでほしいと思った。が、そこは大人だから「私もキリスト教徒です」と返したら「踏んで大丈夫なのか?」と聞かれた。
この時点で、すべてが面倒になった。長文で言い返してもよいと思ったが、時間と労力の無駄である。このように遜ることなく質問することで相手から自益を引き出そうとする輩は、関わると関わった分だけ、こちらがひたすら損をする相手である。要するに「無自覚の搾取による広範囲の加害」こそが本能なのだ。
また自分が相手よりも話題について何かしら高等な判断が可能だと信じていなければ、このような暴挙に出ることはない。幼稚園児は大学教授に対して量子論を問うことはない。つまり、この人物は、少なくとも、ぼくよりもキリスト教とキリスト教に関わる人々について何かを知っていると前提しているからこそ連絡してきたのである。愚昧にもほどがある。
だからグッとこらえて、哀しさと虚しさを宿した真顔で「互いに見ないのが正解ですね、ご連絡ありがとうございました」と伝えて、相互に閲覧できる状態を解除した。
端的にひとこと、「おまえが載せた画像が気に入らない、取り下げろ」と言えばいいのだ。そして、そこまで直接にいう関係でないならば、平身低頭、礼儀と配慮と思考の限りを尽くした上で、こちらに連絡してくるべきである。そうでないなら見なければよい。
連絡してきた人物は、プロフに「ハラスメント反対」と書いている。その当人が自身が属さないアイデンティティを振りかざすことで自分の嫌悪感を隠蔽して「常識」を騙った。さらに直截に表現せずに暗に文言を取り下げよ、と読める質問形式で、こちらにに連絡してきた。
これこそパワハラと言わずして何というのか。自身の問題ではない事柄と引き合いに、見ず知らずの他者の気に入らない文言にイチャモンをつける。これは暴力団の手段と何が違うのか。反社会的手法である。
他者のアイデンティティ・ポリティクスを楯として、ネットだけの関係の他者を譴責し、その相手がまさしくその「アイデンティティ」を持っていたら、今度は、その「アイデンティティ」にそぐわないと言う。つまり、キリスト教徒に配慮せよ、と突撃してきたにもかかわらず、こちらが「キリスト教徒だ」と答えると「踏んでよいのか」と質問してくる。自分の不快感を正当化するためだけに、他者に質問している。自分で調べる気もなければ、学ぶ気もない。
卑怯かつ無知にして恥知らず。「死ね」とまでは言わんが、少なくとも、これらのことについては黙るべき人物だ。が、これらのことを思っても、ぼくは結局「互いに見ない状態が正解」だと判断した。
しかし憤懣やるかたなく気分も悪いので、ここに書いている。読者には悪いが要するに愚痴なのだ。そして思い至る。あぁ、そりゃ黙ってしまうよなぁ、と。
政治であれ何であれ、一度でさえ熟考されることのない社会では、何かしらの専門家なり熟慮した人々なりは黙るしかないのだ。ということで「沈黙の理由」が分かった原稿作業日の午後である。
なおタイトルは「沈黙の理由」となった。遠藤の名作とは無関係ながら、踏み絵である以上、連想せざるを得ない。しかし遠藤『沈黙』をどこかしら評価する人ならば、上掲の内容程度の反芻は可能かと思われる。なぜなら『沈黙』が高く評価される理由は、まさしく、ぼくに連絡してきた人物のような高慢な自画像を暴くからだ。それゆえ委細は省く。
優しさの理由を知りたいだけの午後だった。
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