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naiveだった頃の読み

  たまには日記的なものを置いておく。今日は毎週の「賀川豊彦」演習に出席した。読書は好きなほうだが、近畿大学の学部生の頃には「購読」クラスの意味がよく分からなかった。たしかに聖書を「読んで」いた。しかし、その読み方はベタに素朴にナイーヴに読んでいた。若さとはそういうものかもしれない。そう、まだ聖書をナイーヴに読んでいた頃の話である。

次のような主のことばが私にあった。
 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」
そこで、私は言った。
 「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」
すると、主は私に仰せられた。
 「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ――」
そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。
 「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」

 記憶の限りでは、新改訳聖書第二版エレミヤ書1章のこれらの言葉を、17才のぼくは自分へ語られた言葉として読んだ。文字通り「言葉が人となり」えたのだから、キリスト・イエスが聖書になることもあり得るだろうと、自己解釈で信じていた。

 ぼくの研究対象である賀川豊彦などは17才までにはカントなどを読み終えていたので、随分と早熟である。彼はある種の天才であるから、賀川と比べるときにぼくの凡百木端ぶりは明明白白である。

 「聖書は神のことばなのだ」と言われて、青春と呼ぶにはまだ早い、初心なぼくはそのまま信じていた。だから、自分はいつかエレミヤに語られたことのようになるのだろうと思った。

 あの頃から数えて倍ほど生きたぼくはナイーヴさを失い、くたびれた中年となった。ナイーヴさと引き換えに、米国にて神学修士を散々な成績で、お情けで取得し、京都大学で文学修士を普通に取得し、いまでは研究者然として語ることが許される経歴を得た。

 何を失い、何を得たのだろう。そのあたりは別に措こう。話が逸れた。

 「読む」ことの問題である。学部生の頃、ぼくは購読クラスの意味がよく分からなかった。読んで、解説を受け、感想をいう。そういう習慣がなかったこともある。

 「読んだ通り、感じたまま」こそが書いてあることだった。だから、有名な学者たちが「神学者」たちの専門家であることもよく分からなかった。たとえばカルヴァン研究の大家、と言われてもその意味がピンと来なかった。平たくいえば、頭の鈍い少年であり、青年だった。

 しかし、今ならば、「読む」ことの素朴さと難しさの濃淡を理解できる。ナイーヴだった頃の聖書の読み方とは全く違う世界を知っている。解釈を論じることでしか、テクストに触れられないことがある。もっといえば、テクストが解釈を拒否しているような事態がある。

 そもそも「聖書」が何なのか分からない。神の言葉であることに疑問を感じたことは一切ない。そんなことが問題となるのは素人であって、プロではない。「神のことばである聖書」が何を言っているのか。それを確定するためには、徹底的な文献学的作業、加えて方法論的批判、神学的・哲学的・現象学的・文学的素養が最低限必要となる。さらに翻訳理論、自然科学、社会科学の知見も援用せざるを得ない。

 信仰を持った上で、最大限厳密な解釈を問うている。人類に与えられたあらゆる技術を用いて、神のことばである聖書に向かわなければ、それは信仰的誠実と呼ぶには足りない、とぼくは考える。無論、そんなものがなくとも神に愛され、赦されている。

 確定し得ぬ本文、存在しない原文をどのように把握するのか。学術的極限にまで到達し、埋められるところはすべて仮組して固定し埋めた上で、なお残る巨大な空洞。その闇に、神のことばが潜み隠れている。

 しかし、その闇は、こちらの心身によって意味が変わるのだ。いかにして普遍妥当的な「意味」を取り出すことが可能なのか。そもそも、そんな試みそのものが、「読む」という欲望自体が誤りではないのか。そんなことを思うようになった。

 とはいえ、不思議なもので、エレミヤに語られたと言われる聖書のことばは、今でも僕の実感を構成可能である。もう若くはないが、神に遣わされたと思う場所、それが東大阪であれ三宮であれ、ペンシルヴェニア州であれ、尼崎であれ京都であれ、ぼくは向かった。

 事実、諸国の民の王の前とは言わないが、インターネットという21世紀特有の翼を経て、延べ人数でいえば一万人を超える人間を前に、ぼくはぼくとして、すなわちキリスト教徒として思うところを余すことなく語ってきた。

 預言者を気取るつもりはない。しかし、イメージとして被らなくもないのではないか。

 まだナイーヴに聖書を読めていた頃、ぼくは聖書を読んでいた。いま、ぼくは文学研究に片足を置いて、森羅万象をテクストとして、読解可能なものはすべて読解する、読める物はすべて読み、徐々に書き始めている。

 ナイーヴだったあの頃のぼくが、いまのぼくを見て喜び受容するとは思えない。しかし、まるで古代人や原人のようなナイーヴな読みから、最新の学術的成果を踏まえた解釈読解までを経た人生も、そんなに悪くはなかったのではないかと思う。

 前触れとして、前味としてカルケドンの反転としての歴史的動態を生きる、その果てまで見て書き遺す、それがぼくの仕事なのだろう。

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