見出し画像

ミニマムな神を持つことの赦し

 「神さま」が超越になって数年たつ。打ち寄せた波が引いて返すように、プロテスタント神学を自分なりに修めんとした十年のあとに来たのは、その十年を自己批判して解体する時間だった。もう「プロテスタント:protestatio」という語へのコダワリも執着も、撞着もない。ぼくはその程度のプロテスタントだったのだろう。

 昨日、大阪ゲームマーケットで、出展したキリスト新聞社の手伝いへ向かった。店番で座っていると、子供連れの女性に声をかけられた。だれか分からなかったが、大学時代、夜中によく車で遊びにいった友人の細君だった。おそらく結婚式以来、十数年ぶりだろう。ぼくがプロテスタントだった頃の人間関係は、天体同士が離れていくように徐々に確実に距離が開いていく。いざ連絡をしようと思っても、距離があり過ぎて、語彙と感覚が変わり過ぎていて、もう話せなくなっている。

 時間は物理的な距離と同義だ。天球に光速で映し出される瞬きの多くは、数百万年前、数億年前の出来事である。空に映る天体のように、ぼくの脳裏に映る遠い昔の記憶。地方都市の小さな福音派の地域教会、瀬戸内海のキャンプ場、ゼロ年代の関西の街並み、その空気への宗教的カウンターのエートス。

 あの頃、ぼくの神さまはミニマムだった。胎児が母と連絡しているように私的事柄のすべてに密着した存在としての神――それは比喩でもなんでもなく、文字通りの空気だった。

 いまはどうだろう。大人になり、多少は物事の道理や社会の仕組み、世界の広さ、茫漠とした宇宙の孤独を知るようになった。空気は空気として、空気とともに、空気の中で何をするのか。この大規模な大気循環にログインしている僅かな間に、何をしようか、という感じである。

 空気のように、惑星や重力と同様に前提である超越は、内在にとっては地形と同義だ。地形ほどの大きさになると、人間には印象の仮組みでしか扱うことができない。しかし、神は、印象の仮組みを超える。ゆえに超越である。だから、ミニマムな神を持つことが許されている。そしてミニマムな神を持つことは、個々人の誤差と偏りを含むいびつな「神さま」への赦しを意味している。そして、そこにこそ赦しの本質がある。十戒の冒頭の意味が明確になる。

 他の神の禁止、神の形象化の禁止。人は、その認識の不完全性のゆえに、神を形象化できない。神の絶対性も、神の属性も理解でいない。だから、禁じられている。それゆえミニマムな神を持たざるを得ない。その神は、破れほころびている。その破れとほころびから、神が侵入し浸み込んでくる。そういう形で、ライナスの毛布のようなかたちで、ミニマムな神を持つことが赦されている。

 二十年ほど前、瀬戸内海で触れていた超越は、夏の日射し、夜の潮騒、キャンプ・ファイヤーの揺らめき、虫ゝの鳴声に潜んでいた。あの頃、見上げていた星空のように、多くのことが遠くなっていく。しかし、いびつでほころんだミニマムな神だけが、ぼくと超越をつないでいる。

※有料設定ですが全文無料です。研究継続のため、ご支援ください。

ここから先は

0字

¥ 500

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

無料公開分は、お気持ちで投げ銭してくださいませ。研究用資料の購入費として頂戴します。非正規雇用で二つ仕事をしながら研究なので大変助かります。よろしくお願いいたします。