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バ美肉おじさんのロゴスphonetica

 批評家・黒嵜想による『ボイス・トランスレーションーー“バ美肉”は何を受肉するのか?前編後編が公開された。黒嵜は、自他ともに認める声優オタクである。『井上喜久子の月刊お姉ちゃんといっしょ』を揃えるような中学生を「おたく」と呼ばずして何と呼ぼう。そのらしさは、経歴にも現われている。黒嵜は、声優オタクから転じて「声」そのものへと関心が移り、そこから仏教の「声明」を批評家として論じるにいたった。詳しくは「波線にさまようイドラ― 仏教音楽・声明試論―」(『想文』第一号,2018年)を読まれたい。ユニークで希有な人物といえよう。

 批評誌アーギュメンツで連載された「仮声のマスク」は全三号を通じて、近代における「声」の所在を明らかにした。そして、今回の「バ美肉」論においては、最先端の「声」に接続している。

 古くから、女性の美声は妖しいものとされてきた。この声は儀礼や芸能の場において神を言祝ぎ、あるいはエロスを操り、死を招くものとして扱われた。高い声はそれが特定の身体から発されたことをマスキングする。そして男性にとってそのような女性の声は、化粧や衣装、果ては映像編集などの視覚的な操作によって「女性を装う」ことが可能になってもなお、最後に残った障壁であった。それは異性装においてももちろんのこと、虚構のキャラクターを創作する場合においても同様である。

 黒嵜は歴史を辿り、現代的課題としてジェンダー問題を取り上げ、その障壁の象徴としての「声」に注目している。先のキズナアイ騒動の本質を、視覚ではなく聴覚の観点から切り込んで見せている。それはあたかも容姿に左右されないことを選ぶかのような、声優おたくのストイックな姿勢にも重なる。目を閉じた黒嵜の脳裏に聞こえた声、それがMtFの声なき「声」だった。

 『あたらしい女声の教科書』(原作者:hitomine)という同人誌はその貴重な傍証だろう。2013年に同人誌即売会「コミックマーケット」にて頒布された本書は、「想定している読者は、主に、女声が出せずに悩んでいるトランスジェンダー (MtF) 」とし、同じくMtFであるメラニー・アン・フィリップス(Melanie Anne Phillips)が考案した発声法、「メラニー法のローカライズ」を提案するものである。巻頭言には、「私もまた、女声が出せずに悩んでいた者の一人」とする著者が「どんなに見た目が美しくても、口を開けばただのオカマ。そんな悩める人のために、本書は書かれました」とある。

 コミケで配布された同人誌に潜む「声」を、黒嵜は聞いている。結果、彼にとってキズナアイへ向けられた批判は無効化されている。否、徹底化されている。たしかに、もしキズナアイが枯れた低いおっさんの声だったら、アレほどの騒動にはならなかったのではないかと思える。なぜなら視覚を除く他者による性認識の第一は、聴覚によるからだ。「声」を無視した異性観を問うことの不毛さを指摘することで、黒嵜は敵味方入り乱れるキズナアイ騒動という戦場に、小さな広場をつくって見せたと言えよう。言わずもがな、古来より広場は政治の舞台である。

 Vtuberに潜在しているセクシズムの本質はこの声にあるのであって、視覚的なデザインや発言のパターンはあくまでも副次的なものに過ぎない。批判者は、彼女の声にこそメスを向けなければならない。そもそも、例の動画でジェンダーロールに晒されている確かな女性の身体とは、声をおいて他にないはずだ。

 黒嵜は、ここでキズナアイ騒動における被害者の非実在性を指摘すると同時に、男性のみによる創作はジェンダー・ロールの再生産に結び付きかねない、という批判への余地も残してみせる。そして声を上げる。

 吉見俊哉『「声」の資本主義 電話・ラジオ・蓄音機の社会史』を足がかりに「声の複製化と女性の身体の資本主義的再編が、広範な匿名的な顧客との応対という場面で広く接合されている」事実を述べるのだ。これは批評誌アーギュメンツ「仮声のマスク」で、彼自身が語り記したことを引き受けたものである。すなわち、地鳴りのように合戦を止め、その真空で、吉見が記述した現実に対抗し得る可能性を閃いてみせた。

...「女性らしい声」が挫折し、それがキャラクターの対比的なデザインに変形をもたらし、彼自身やバ美肉のジェンダーロールにも変質をもたらす。筆者がバ美肉に期待して止まないのは、「女性らしさ」の挫折と新たなジェンダーロールの創出だ。そしていつか、『あたらしい女声の教科書』が求めた「気長に付き合ってくれるだけの友人」が、ここに現れることを願う。

 「バ美肉」とは、おっさんが単純にオンラインのデジタル情報に美少女として転生してるわけではない。そこには「声」をめぐる自他の身体性の共同体、その関係性が循環しているーーこの黒嵜の指摘は、あたかも「バ美肉」的動態が、『あたらしい女声の教科書』が願い、構想した世界を継承できるのだ、と諭しているかのように見える。

 「バ美肉」が単線的な現象ではなく、循環と関係性の動態であるかのように、黒嵜の「声」自身がVtuberとMtFを連絡し、循環と関係性をつくろうとしている。それは、気長に付き合う友人であることの、黒嵜から両者への表明であり、読者への招きでもある。

 誤読もあるかもしれない。しかし、ぼくは、このように黒嵜想「ボイス・トランスレーションーー“バ美肉”は何を受肉するのか?前後編」を読んだ。それは、直截に、ある人を思い出させた。植田真理子さんである。

 2015年3月15日、植田真理子さんは満足と絶望の中で自死を選んだ。自死のあとにツイッターが投稿されるようになっていて、誰もがあとから事実を知った。Twitterアカウントも保存されている。@marikobabel

 2013年の2月だったか、ぼくは植田さんに会ったことがある。挨拶だけしたのだが、とにかく、ぼくは恐れていた。詳しい事情は千差万別であり、何も言えることがなかった。だから、正直にいえば面倒に巻き込まれたくないと思った。さらに当時は、新書『ふしぎなキリスト教』への賛否をめぐる炎上がいまだ僅かに燻っている時期だった。植田さんは批判の急先鋒であり、ぼくは擁護する側の友人として、イベントの司会を頼まれて登壇していた。

 そこでプロテスタント教会の、いわゆる異性愛者以外への洗礼に関する対応について聞かれた。彼女もその会場にいて、のちにtwitterでぼくに言及した。「プロテスタントはなかなか出来ていないのではないか」と、ぼくは答えて、あとから、熟練の牧師からお叱りを受けた。たしかに「ぼくにはできていません」と言うべきだった。プロテスタント教会でも対応できているところは多いだろう。無知なだけだった。

 その後、関わる機会もなく、たまにネットで名前を目撃する程度だったが、2015年の春、植田さんは逝ってしまった。植田さんのキリスト教信仰をぼくは測ることはできない。植田さんは、植田さんとして、神やキリストや聖書や教会と関わり、そしていなくなった。

 当時、そのニュースをみた日、ぼくは東京にいた。前日は天気が悪く、どんよりと曇っていて寒かった。しかし、翌日の天気はさわやかに晴れていた。植田さんも一日待っていれば気が変わったかもしれない。そんな愚かなことを思った。中央線の窓からそそぐ陽光のイメージが、植田さんの自死に結び付いている。

 昨日の朝、以前、ぼくが住んでいたピッツバーグの住所近辺で銃の乱射事件が起きた。容疑者は、移民への鬱憤をつのらせた反ユダヤ主義者だった。ピッツバーグは、ニューヨークの次に大きなユダヤ人のコミュニティがある。ぼくがいた学校も、旧約聖書からみで、あのユダヤ人会堂とつながりがあった。旧約学の教授が、授業でうれしそうに「あのシナゴークのラビから角笛をもらった」とぼくら学生に見せびらかしていたのを覚えている。無論、現場の前を何度も通り過ぎている。車で5分、徒歩でも30分圏内。詳しく地図を書ける程度には知っている場所だ。

 同じ日の夜、話題となっている映画『若おかみは小学生』を観た。奇跡なき時代における赦しへの祈りの歌だと思った。小学生にはあまりにも重すぎる現実、しかし、それはぼくらのものでもある。観たあと、様々に考えたが、良い映画だ。

 近代社会は「許可」を与え、宗教は「赦し」を与える。このように、二つの「ゆるし」を並べるのは短絡的に過ぎるかもしれない。しかし、植田さんのこと、ピッツバーグの銃乱射事件、そして「若おかみは小学生」をみて考える。宗教が赦せないものは何か。近代社会が許可できないものは何なのか。

 旧約聖書に「列王記」と呼ばれる書物がある。そこでは、異教祭司と戦い勝利をおさめた預言者エリヤが鬱になって洞穴にこもった際に起きた出来事が記されている。神はエリヤに語りかけた。

主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を/裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。(ch19:11-12)

 この聖書は、ぼくにあるイメージを連想させる。神が宿る現象が、人々の間を通り過ぎていく。それは岩をも砕く激しい暴風雨、地震、火災のようなものだ。しかし、その現象の中には、神の声は見られない。すべてが通り過ぎた後に、燻り煙る灰燼のなかに「静かにささやく声」が聞こえるのだ。

 Vtuberやセクマイと呼ばれるような人々を自然災害に例えるつもりはない。黒嵜想を預言者だとも思わない。ただ、現象に潜む「声」を聞き、異なるものを連絡し、新たな可能性を見出すことは、神の声を聞くことに似ているのではないか、と思う。

 誰かの声を聞くことは、二つの「ゆるし」の齟齬と軋轢、相克の中でうめく人々の可能性を見出すことでもある。それは、ぼくのキリスト教信仰にとっては善である。そして、善があるところに神がいる。神の名が語られるから善となるのではない。真逆だ。

 そして、この善悪の逆説、超越と内在を包括する神秘こそ、聖大アタナシオスが生涯をかけて証明しようとしたもの、「受肉」である。黒嵜「バ美肉」論に欠けがあるとすれば、一点、アタナシオスの名前が出ていないことだ。

 以上、見ず知らずの「バ美肉」について読み知り、そこから思うところがあったので、思わず長く書いた。余談ながら、キリストはリリジャス美少女受肉爆誕オジサンである。つまりバブ味とオギャりを兼ね備えた視点もある。おたくは、もっとキリスト教神学に魅かれて良いのではないだろうか。バ美肉おじさんをめぐるロゴスphonetica、その向こうには二つの「ゆるし」が重なる奇跡があるのかもしれない。

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