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クセノフォビアについて

 地下鉄ホームの最前列で電車を待っていたら、ドアが開いた途端、中国人と思しき若い女性が突進してきた。無論、体格と質量からいって吹っ飛ぶのは相手である。哀れ、その女性はふらついていた。ぼくとしては自身の内から湧き上がる、見知らぬ女への呆れた気持ちと僅かな怒りの置き場に困ってしまった。

 いま、大阪でも京都でも外国人ばかりである。犬も歩けば棒にあたり、日本人が歩けば外国人と出会う。とくに大阪なんばあたりでは、もはや通り過ぎゆく際に日本語が聞こえると、少し驚いてしまう。

 しばらく前、たまたま見晴らしのよい喫茶店に行く機会があったので、せっかくの休みだし、そこで静かに読書でもしようかと入った。焼窯を備え、陶芸教室も兼ねた店なので、ピザがうまいらしい。喫茶店で静かに読書できたらいいな、そう願って扉を開けた。が、土禁の館内へ入ろうとして、さっそく驚く。子供のクツが散らばっている。陶芸教室でもやっているのだろうか。平日のこんな時間に?

 中に入り、さらに驚いた。観光客であろう。子供らが叫び、備え付けのピアノをやみくもに叩いている。正直、帰ろうとかと躊躇したが、ほかに行くところもないので、一番端の席に座る。眺めはよい。

 アイスコーヒーを頼み、テーブル伝いに隣に気づく。一人旅なのだろう。瞳をぱっちりとさせたショートカットの女性が、二つ空けて座っていた。どうやら日本人で、彼女もまた辟易しているようだった。

 集団観光客の傍若無人ぶりは凄まじく、立ち歩いてははしゃぎ、大声で写真を撮影し、子供を静かにしようと注意する大人が大音量で動画を流している。闇落ちした「エリーゼのために」が断末魔のように聞こえて来たときには、発狂しそうであった。ただ幸か不幸か、テラス席に座っていたので音の抜けはよく、悲惨だなと思いながらも多少読書はできた。

 一昔前の日本人も、きっと世界各国で同じように振る舞い、様々な国の人々から呆れと侮蔑の眼差しを受けていたのだろう。去来した思いは二つ。

 一つは、未熟な近代人の哀しさである。金に物を言わせ、旅先で立ち寄る先の迷惑など一顧だにせぬ愚かさ。古代エジプトを襲ったイナゴにも似た、その迷惑な集団は「蛮族」という語こそふさわしい。

 もう一つは、被植民地側の目線だ。解せぬ言語で金と欲望のままに生活圏を荒らしていく異邦の民に対して、抑圧されているとは言わぬまでも、小さな苛立ちはある。貧しい側の哀しさだ。

 成金へのやっかみといえば、そうなのかもしれない。また日本人だって軍事的にも経済的にも他国を侵略して…云々といえば、まあ、その通りである。ただ考えてみれば「近代」とは国家とセットで語られる状況であるから、そもそも、ある種のナショナリズムと結びつけられている。「近代化」は、何よりもまず国境線内部で起きるのだ。だから、近代国家同士の交流、折衝が起きる場面では、互いの「国家」が、どこかに現れてしまう。そして、相手の至らなさの理由をそこに見出してしまう。

 「外国人だから礼儀をわきまえぬ...」「このような蛮行に及ぶのは外人に決まっている…」あまりにも短絡的で、これこそ蛮考である。とはいえ、相手を叩く正当な理由、分断の根拠としては、それだけで十分なのだ。このあたりに、ぼく自身の内なるクセノフォビアを感じてしまう。

 しかし、ぼくも一時期、「外国人」だった。ほんの数年ではあるが、海外で「異邦人」になったことがある。差別を受けたように感じたこともあるが、むしろ、人々は礼儀をわきまえぬ蛮族=ぼくへの配慮と礼節を欠かさなかった。だから、ぼくは聖書の命じるとおり、やはり外国人は優しくありたい、と思うのだ。

 誰だって海外旅行にいくのに合わせて、そこでのマナーを逐一全部調べては行くまい。たとい、カギを閉めることなく手洗いを使い、洗面用の下履きが用意されているにもかかわらず、館内用サンダルのまま用を足す異国の老人がいたとしても、顔をしかめる前に、相手の文化背景を慮る必要があるのだ。

 クセノフォビアを発症する前に起動すべきは、相手の環境への想像力である。そして、ぼくのような狭量な人間は、その想像力を宗教的に戒めなくては忘れてしまう。神のことばである聖書はいう。

(出エジプト記23:9) 他國の人を虐ぐべからず 汝等はエジプトの國にをる時は他國の人にてありたれば 他國の人の心を知なり
(レビ記19:34) 汝等とともに居る他國の人をば汝らの中間に生れたる者のごとくし 己のごとくに之を愛すべし 汝等もエジブトの國に客たりし事あり我は汝らの神 主なり
(同23:22) 汝らの地の穀物を穫ときは汝その穫るにのぞみて 汝の田野の隅々までをことごとく穫つくすべからず 又汝の穀物の遺穂を拾ふべからず これを貧き者と客旅とに遺しおくべし 我は汝らの神 主なり

 クセノフォビア吹きすさぶ昨今である。その根っこには何があるのか。それは想像力の欠如であり、経験の不足だ。ただ、どうすれば、それらを共有できるのか、未だよく判らない。

 もんもんとして乾いた心にアイスティをひとくち注ぐ。氷がカラコロと焼物のカップを鳴らし、のどを濡らす。すでに観光客たちは帰ったようだ。珈琲と紅茶、ほろ苦さの中に残る味わいと香りがぼくを潤している。思えば、これらはまさしく外国人がもたらしてくれたものだ。

 異邦の民がもたらしてくれるもの、それは悪いものばかりではない。金田一京助によれば、日本語は「語彙の方面では、あらゆる接触民族の文化と共にその単語を取り容れて消化」してきた言語である。ところが「英語・漢語のおびただしい消化にかかわらず、文法上にはほとんどなんらの変更も影響も受ける所がない」という。

 もしそうであるなら日本語話者として、もう少ししなやかに、たおやかに外来のものと付き合いたい。こんなことを書いていたら、外国人の小さな子どもが歌いながら、ぼくのテーブル付近まで来た。異国の太いオッサンへの笑顔と視線に、ぼくはどう返せばよいのか、判らなかった。

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