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価値と神頼み

 風呂に浸かりながら、これを書いている。スマホは防水でないので落とすと終わり。雨音が忘れていた梅雨らしさを思い出したように屋根を叩く。洛中の祭でも似たような音が聞こえているのだろうか。

 遠い将来、地元に人文学に関する稀覯本図書館を作りたい。何なら喫茶室が併設されていてもよい。ぼんやりとそんなことを考えている。

 稀覯本は存在自体が価値である。だから何とかして「現物のまま」残したい。国会図書館にデジタルで残っているものも多いが、現物があるか否かは大きな違いだ。なぜならデジタル記録の方が改竄と消去が容易だからだ。シュメールの粘土板が今にいたるまで残っていたことを思えば、言わずもがな。電磁記録と物理的個体の違いである。

 もうすぐ、多少大きな決断をせねばならない。発起人として三桁の金を預かることになるかもしれない。金曜夜、本当に自分がその役を担えるのか少し不安になった。だから日曜朝の礼拝に行きたいと思った。要するに、困ったときの神頼みだ。

 今にして思えば、神に伺いを立て、都合のよい感傷が来て、それに背中を押されたかったのだ。しかし、結局、今朝起きたら間に合う時間でもなく、仕事もあるので贔屓の喫茶店にも立ち寄らず、宿直に向かった。

 あらためて考えると、神の助けは通常の手段を用いて現れる。言い換えれば、すでに用意され、存在しているものの中から、助けはやって来る。だから、こんな時だけ敬虔さを発揮する必要もないのだ。そもそも敬虔さと威厳など、手に入れる前に揮発してしまった。それに生活自体がある種の祈りだと、ぼくは信じている。神は知り、理解し、支えてくれるだろう。既にそうなっているのだ、と独り言ちた。

 いま目前にある決断は、価値をつくるものだ。存在しているものは、すでに価値がある。その価値を集めて、新たな価値を想像し、騒々しくも創造したい。この願いと決断は、敬慕してやまない友人の小説家やアニメーターらと同じく「神の継続的創造」に、ぼくも参与することを意味する。

 無論、生きていること自体が、それではない。そうはならない。自覚的に価値を作り担うからこそ、その価値には意味がある。神の似象として、価値そのものである神を分有する行為こそ、神の継続的創造への参与だろう。

 だから神頼みをして価値を保証してもらう必要はない。事実、日曜朝までに、神ではなく人と世界から十分に背中を押されたように感じている。だから神頼みしなくても良いのだ。雨乞いは終わり、手を動かす時が来ている。

 いまも風呂に浸かっている。宿直仕事の前半をほぼ終えて、そろそろ茹で上がりを感じる。予報通りなら、明日は少し晴れるらしい。今年の梅雨の雨量を思うと、関西ではまだ降ってもよいのではないか。

 この一週間、あまり外出することなく控え目に過ごした。在宅している時間が長かった。だからか、回復しつつも、疲れが表面化しつつある。明日の午後は、ゆっくり過ごしたい。まだ雨粒らがステップを踏んでいる。軽やかなステップが段々と行進音のようになって来た。明日晴れるかは判らない。しかし、時機を思い待つには心地よい夜である。

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