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信頼の置きドコロ

 コロナ禍で、首都圏と関西が「緊急事態宣言」の対象となった。大阪・兵庫だけと思ったら、京都も似たようなことになるらしい。

 京都府の西脇隆俊知事は8日、医療機関への通院や食料品の買い出し、職場への通勤など生活維持に必要な場合を除く不要不急の外出を自粛するよう府民に要請する方針を決めた。(京都新聞 4/8(水) 11:55配信)

 観光客が疎らなくらいで、いまのところ京都でのぼくの「生活」は普段と変わらない。ただ先ほどコンビニへいくと、まだ22時なのに大路と通りの人通りは少ない。徐々に自粛ムードとなるのだろうか。方々で「この同調圧力こそ、護憲の源であった」という指摘もあり、なるほどと一人納得している。

 ネット経由で伝わるニュースを眺めていると、結局「誰を信頼するのか」という状況が垣間見える。政府機関、関係省庁の発表か、またはボランティア団体の見解か。それとも普段使うSNSの内容か。誰のどこをどの程度まで信用すればいいのか。

 ぼくとしては、未だ交通事故より低い危険因子なので、少し楽観的だ。無論「可能な限り、周囲と自身のために注意するしかない」という前提は強力にある。しかし、その上で、やはり、そこまでの緊張感が持てない。一つは信仰のせいであり、もう一つは学問のせいでもある。

 最近、古人類学の新書を勉強として一読した。これが本当におもしろかった。要約すれば、大きくみると「人類」史は、約700万年で25種以上の人類が存在しており、ぼくらホモ・サピエンスは、最後の一種であるという。人類進化のカギは、おそらく「直立二足歩行」と「犬歯の縮小」らしい。

 最後の仲間ネアンデルタール人は約4万年ほど前まで生きていて、姿を消した。読後、そのことを思い、少し胸を衝くほどの哀しみを覚えた。進化の果てに獲得した形質のゆえに、滅びを身に受ける生物の哀しみの余韻。ネアンデルタール人は、神とどのような関係にあったのだろうか。

 進化の過程において、おそらくコロナ禍のようなことは何度もあったのだろう。また言うまでもなく、現生人類の歴史においても同様である。だから、まあ仕方ないか、と思ってしまう。人は死ぬものだ。もちろん、こちらの不注意で誰かが死んでよいわけではない。ただ学問が拓いてくれる視野によって、少し自分たちの存在を相対化できてしまう。あぁ、そうそう、そんなものだよなぁって。

 また神を信じているので、自身と人類の生殺与奪は神にある。生物の本能として自己防衛はする。しかし、それでもダメなときはあるのだ。そういう、ゆるくて明るい諦念がある。このあたりは、何かしらの宗教へのコミットを持つ人々ならば通底する気持ちではなかろうか。

 情報は常に加工される。第一次的な情報も難し過ぎる場合は、翻訳(言い換え)されて加工され、二次情報となる。さらに、それが要約・解釈されて三次情報となり、それらの膨大な印象へのコメントや願いが第n次情報として、ネットワークを覆ってしまう。

 回線の蛇口をクリックすると、汚染水のように情報が噴き出してくる。みな飲料水が欲しいから、どの蛇口が良いのか、迷う。誰を信頼するかが問われている。しかし、実は誰も信頼できない。「誰かがより正しい情報を持っている」という問いの前提、不安解消への欲望そのものが、実は信頼に値しないのではないか。

 そんなとき、学問や信仰の世界は、少し透明な空気を吸わせてくれる。あぁ、そうだよな、ネアンデルタールだって4万年前に死んだんだ。デニソワ人には会ってみたかったよなって。

 信頼の置きどころは、どこにあるのだろう。ぼんやりと誰もいない暗い部屋で、隣の部屋からの漏れ灯と画面の明るさで、これを書いている。

 ところで、コロナ禍に関する情報伝播と解釈のふり幅は、そのまま聖書学(文献学)における一次資料から現行の翻訳聖書の幅と解釈の同類としてモデル化できるだろう。ぼんやりとそんなことを考える。これは余談である。

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