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それでも濃厚接触したい

 コロナ災禍で明らかになった一つのことは「オンラインで済むものはオンラインでよい」ことだ。医療福祉では、ほとんど無理だろうし、IT系だって社外へ持ち出せない端末なりデータなりがあれば、無理である。人間は物理的存在なのだ。ということで、以下、チラシの裏の落書きである。内容はない。

 今回、興味深いなと思ったのは「学校」である。一般的な小中高における「知識の伝達と修得」だけならば、正直オンラインでよいだろう。この際、義務教育のほとんどはオンラインで可能なのだから、全部そうすれば良いだろうと最初に思った。

 教師の人件費も膨大な数の設備投資も全て削減できる。授業だって、地方自治体に各教科10名くらいのスペアを用意して公開配信すればよい。教室の透明性も保たれ、ロリコン教師から子供を守ることもできる。良いことしかないじゃん、と思った。

 しかし、結局のところ、オンライン授業へ移行できない理由がいくつかある。一つは、子供のために親と家庭から逃げる場所を用意できないこと。もう一つは、強制しなくては勉強できない子供のほうが多いこと。また、対面でなければ、すなわち「濃厚接触」しなくては教えられないことがあるからだ。

 まず、学校が逃げ場になる子供のことを思えば、これは納得である。次に、強制しなくては勉強できない子供についても理解はできる。ぼくもそうだったからだ。ただ、これは中々根深い問題だ。公教育を強制的に行うに際して、莫大な人員とリスクを否応なく抱えざるを得ない。

 すでに「公教育」を受けてしまった人間として、これに文句をいっても仕方ないのだが、「公教育」の在り方と方法の是非は、厳密に議論されても良い。ただ哀しいかな、人間が人間になるために、いま以上の制度があまり思いつきそうもない。生まれてきたこと自体、生きる=不幸である、という御釈迦様以来の伝統が結論である。

 そして、最後の「濃厚接触」しなくては伝えられないことある、という話。ぼくは、このあたり、かなり懐疑的である。教室における教師の役割は、基本的に監督であり罰の執行者である。別の監督方法と罰を用意すれば、事足りるように思う。無論、教師の人格に触れて良い効果もあろうが、悪い教師も同数かそれ以上いるだろう。

 とまあ、個人的に教育のオンライン化は徹底的に進めたほうが、みな楽になるのではないか、と思っている。だから上記のように思う。しかし、同時に気付く。人間の根源的な欲求として、そもそも、ぼくらは「濃厚接触したい」のだ。

 その意味で、コロナ災禍によって、炙り出されたものの一つが、どうしようもなく「濃厚接触したい」という、この欲求なのだ。ここまで思って、さてどうしたものか、と考えている。とりあえず珈琲でも一杯淹れて、内なる願いへの対処を考えたい。

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