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10年経って思うこと。

こんにちは。あおまめです。

10年ひと昔、なぁんて結構ざっくりと雑に括られがちな「10年」。
10年前って何してたっけなーって思うことってないですか?

まぁ、10年前といえば、先日こんな記事をnoteに書きました。

思っていたよりもたくさんの反響とスキをいただけて恐縮しきりではあるのですが(笑)。
ほんとこんなお気持ち垂れ流し殴り書きにお時間を割いていただいてありがとうございます。思い切ってよかったよ…うん…よかった…。

まぁ…個人的には北海道コンサドーレ札幌にドはまりするきっかけにもなった年、ではあるのですが。
この年といえば、やっぱり避けて通れないのは

3.11

なのかなぁ…と思います。

10年目の節目、と捉えているのか、報道各社は3月に入る前からあっちこっちで特集番組とか特集時間を設けてあれこれやってましたね…。

うちの職場、仕事の関係上で終日地上波のNHK総合が無音字幕付きで流れっぱなしなんですよね。
もちろんそれが吉と出る場合も多いですし(地上波でJリーグやるときとか)、夜勤の時はこっそりチャンネル変えても大目に見てもらえてる、という感じではあるのですが(もちろん仕事優先、ちゃんとやることやってたら怒られない)。

ただ。
この10年間何となく避けられていた

津波モロ映像

が結構遠慮なしにぶっこまれて来てて、これはさすがに被災もしてない地域住みの僕でも若干メンタルやられました…。
もちろん風化させてはいけない、語り継ぎたい、教訓として学ばなければいけない、という趣旨はとてもよくわかっているつもりなのですが。

自然災害が発生した後、その映像を流す際には事前に

「次から映像が流れます」

といったテロップが挟まれることもあったように記憶しているのですが、今回はあまり見かけなかったのは、上記の趣旨の元、だったのでしょうかね。。。

ということで、今回はこのあたりのことを整理したく、垂れ流し書き殴りたいと思います。
直接的な表現はできるだけ避けたつもりではあるのですが、もし読んでいる中でご気分が悪くなったり、イラっとしたりムカッとしたり、マイナスの感情が湧き出てくるときにはそっと閉じて離れてください!
(というか最後まで読んでいただいても特段得るものは何もないです!笑)

ひとつだけお断りを。

このツイートに集約されますが、このnoteはあくまでも一個人の心情的な部分であり、何かの意図や思惑や何かの団体の総意を持って述べているものではありません。

また、被災された皆様方におかれては、まだまだ未解決の問題のほうが大きく、大事な人にに会うことも叶わないままいつもの生活を取り上げられ、奪われたままの方が沢山沢山いらっしゃることも重々承知の上です。

それでも垂れ流したのは、自分自身のもやもやを整理したい、ただそれだけ。自分のエゴでしかないということも分かっています。

その点をご理解の上、先へお進みいただければ幸甚です。
勿論、つらくなったらその時点で離脱してくださいね。

そこに至るまでの経緯を簡単に。

2011年からさかのぼること3年くらい。
至極真っ当にサラリーマンしてた僕は、その時の業種故、

・徹夜で会社に泊まることが年間数回(この時は夜勤なし)
・大型連休は遠出ができず、緊急事態で呼び戻されるため酒も飲めない(当時さほど飲んでなかった。クラシックが飲めませんでした。笑)

という、若干黒っぽい感じの、もしかしたらクロぢゃね?のような典型の生活してました。

6時にタクシーで家帰ってシャワー浴びて8時に家出て9時から仕事

や、こんなん普通でしょ、って思えるくらいメンタルは相当削られていたはずです。
で、そんな生活を続けてきたころに例のアレがやってくるわけです。

リーマンショック

ですね。もう記憶のない方もいらっしゃるのではないかと思うし、うーん歳バレますね(別にいいんですが。笑)。

ヤバそうだな、とキナ臭さに鼻がヒクっと動いた時にはもう手遅れで。
会社に呼び出され、一瞬で無職になりましたよ…。こわ。

ただ、1か月分の給与保障と残っていた有給休暇の買い上げ、会社都合での解雇、という事実だけが手元に残りました。

今までやってたこと、何だったんだろう。
今まで頑張ってきたこと、無駄だったのかな…。

そんな悔しさだけを抱いて、とぼとぼと帰宅したことを覚えています。

そのあとたまたま手続きに行った職安で、運よく紹介された職業訓練のプログラムに合格、半年専門学校に通って勉強しながら雇用保険受給することができまして(受給期間が少しプラスになったはず)。
その時に基本情報処理の国家資格を取ることができたんですよね。
周りはみんなIT系初めて、みたいな人たちで、専門学校からは

ITパスポート

をしきりに勧められてたんですが(笑)。
いや、初級シスアド持ってるのに今更Iパスもくそもねえだろと。
まして本職の先生がいるんだったら基本情報受けさせてくれよどうせ受験料こっち持ちだろとかなり食い下がって、こんなこと言いだした人あんたが初めてだと言われましたが(笑)。
過去問題とかずいぶん融通してもらったり、放課後に質問に行って教えていただいたり、それこそ学生時代よりがっつり勉強しましたね(笑)。
先生方もほんと親切で、カリキュラムが終了してからの合格発表だったため、合格の報告ができなかったことだけが心残りでした。
でもあれか、団体受験してるからわかるか…。わかるのか??(よくわからず)

まぁ、国家資格と民間資格をいくつか取得して、再就職をするのですが、ここがまた

とてつもない真っ黒ブラック!!!(デデーン!!!

ブラック企業は舐めたらいけない。給与振り込みの口座作れと指示されて、キャッシュカードが来ないうちから

その銀行の支店のない地方都市に出張させられる(2ヶ月)

その間の生活費どーせーっちゅーねん!とずいぶん食い下がりましたが、結論は

一緒に出張に行く先輩にご飯食べさせてもらってください

…なかなかできない経験でしたね。
後にも先にもこんなこと、あるわけないしあってたまるか。

最終的にはネットバンキングを申し込み、友人に頼んでネットバンキングの暗証番号をメールしてもらってそこから都銀に振込して事なきを得ました。
先輩にもずいぶんご飯食べさせてもらいましたが本当にありがたかった…。

というわけで2ヶ月に1回程度のスパンで全国に出張する、という旅芸人のような生活が始まったわけです。
前職(当時)とは180度真逆、でもとてつもなく真っ黒漆黒の闇状態(残業代なし有給ゼロ)でしたけどね。よく頑張ったわ僕。

そのとき、僕は。

で、ちょっと前置きが長くなりましたが。
その年の3月。僕は仕事で高知県にいました。
というか四国を回る出張ルートで、徳島県から高知県に入ったばっかりで。
当日は確か海沿いのすごい風光明媚な場所での仕事だったんですよね。
海岸に松の木生えてて~お侍さんが歩いてきそうな感じ~?(笑)

でも、生まれも育ちも北海道の生粋の道産子は

海抜ゼロメートル

がピンとこないんですよ。

海抜ゼロメートル地帯(かいばつゼロメートルちたい)とは、海岸付近で地表標高が満潮時の平均海水面よりも低い土地のこと。単にゼロメートル地帯とも呼ぶ。こうした地域では集中豪雨や高潮、台風、津波などの水害時に対処するために、堤防や水門、揚排水ポンプなどを整備する必要がある。なお、海岸付近に限らず平均海水面よりも低い土地は一般に窪地(あち)と呼ばれることがある。

ハイ、困ったときのWikipedia、いつもありがとうお世話になります…。

とはいえね、何かあったときの避難経路を確認してくれと宿のおかみさんに言われても、

土地勘ゼロ

ですから、どこに逃げたらいいのかわからない。ましてこの

知ってる土地でも迷子属性

ですから(笑)、ほんと今大雨とかやめてくれと何度も思いましたね。どうせなら連れてってくださいよ土地勘ねえっすって言ったらあたりまえだよ!っておかみさんに怒られましたが(笑)

で、当日。
風光明媚な場所で仕事をするも、のんびりのどかな場所過ぎて暇で暇で仕方がないわけです。
その時部下がいたので、部下に散歩でもしてきなーついでに途中のコンビニでコーヒーとおぬしの好きな物買ってきてーってお小遣い渡してお使いに出して。
僕はだだっ広いスペースでのんびり海を眺めてたんですよね。

その日めちゃくちゃいい天気で今晩何食べようかなぁあそこのスーパー寄ってお惣菜でも買おうかなぁとかぼんやりしてたんですよ(宿は素泊まり)。
すると

キャーーーーー!なに!?!?おっきい!!おっきい!!やだ!!!

繋ぎっぱなしにしてた本社との電話から、パートさんの大音量の悲鳴が。
めちゃくちゃびっくりしまして。
というか

おっきい?おっきい?ってなんだ???となっているところに

何してんすか、んな真昼間から公然とセクハラ行為に及ばないでくださいよ

ほかの地域に出張行ってるメンバーから軽口も聞こえてきます。
(勿論そんな公然わいせつ行為は行われていませんでしたが。笑)
そのくらいよくわからなかったんですよね。まさにカオス。

で、その声が収まって3分後。
慌てた様子で会社から連絡が入ります。

「あおまめさん、無事ですか?」

え?無事って何?どういうこと?と思ったら、強い地震があって札幌も相当揺れたと。
たまたま東北地方に入っていた班と連絡が取れないということ。
もし何かあったら高台に避難するようにとの短い指示。

ん?よくわかんないけど何かあったことはわかったぞと。
慌てて部下を呼び戻し、とりあえず待機することに。

その日借りていた施設の管理人のおじさんも青白い顔で、状況を教えてくれました。
福島がひどいことになっている、これはヤバそうだ、と。
今日はもうこのまま施設を閉めたいという意向を受けて、とりあえず車中待機することに。

部下のワンセグで緊急ニュース速報で原発が爆発した、というあの光景を見て、絶句したのは言うまでもなく。

ほんと、ピクリとも揺れた記憶がなかったので、おそらく揺れてなかったとは思うんです。
ただ、津波は怖い。ましてここは海抜ゼロメートル。避難場所もわかんないどうしよう北海道帰れるのか生きて札幌の地は再び踏めるのか…。

ほんといろんなこと考えました。
縁もゆかりもない高知で天寿を全うするのか…誰か迎えに来てくれるんだろうか…来るなら兄か親か…とかとか。

その後、会社の連中みんな無事が確認できて、その数日後東北班はやっと手配できたフェリーで帰札できたとの知らせも入り。
(同期がこの班にいたのですが情報提供がなく業を煮やした同期の親御さんが会社に殴り込みに来たとか…そりゃそうだよな…)
被害のなかったほかの地域の班は出張続行だったわけなのですが。

ただ、困ったのは地元にいる実家や兄との連絡がつかないこと。
当時両親はau携帯で、自宅もKDDIだったので、連絡がつきにくいのは仕方なかったのですが。
ドコモを持ってる兄にも連絡がつかず、確か話せたのは2日くらい後のこと。
今高知にいること、無事であることを簡単に伝言を頼んだのですが…
その後連絡がつくようになった時点で相当怒られました(笑)。だから仕事だっつってんの。遊びじゃないから怒らんといてもう。

当時関西にいたツレと夜に電話するのが日課だったのですが、ここも繋がらないしメールも届かないしで結構心配したりもしましたが。
実際の被害はなかったものの、ちょうど被害が大きかった地域に数か月前に入って仕事してたばっかりで。
それを思い出してしまう…とかなりメンタルやられてましたね。

未だにツレは震災関連のニュースは見られないと、始まるとチャンネル変えますもん。
珍しく見てるなぁと思えば声もなく静かにはらはら泣いてたりするので、これ一度どっかで診てもらったほうがいいのかしらと思いつつ。

それから、そして今。

まぁそんなこんなで無事に札幌の地を踏みしめることができて何よりだったわけですが。
聞けば相当な揺れだったと口々に言うわけです。ひどかったと聞いても、自分は幸いにも何も揺れなかったしひどかった揺れの程度がわからず、うまく共感できないのもなんだか歯がゆいなと今でも思っています。

2018年の胆振地震の時も相当な揺れだったにもかかわらず深酒泥酔して朝まで全く起きなかった奴なので…さすがにそれはどうかと思いますがね(苦笑)。

その後程なくして身体を壊し、次の年にこの漆黒スーパーブラックを辞めて今に至るわけなんですが。
それでも、全国を出張して回る、という経験はあまりすることがないし、それこそアウェイ観戦だって行けるものでもないし(行けてる人すごいなと思います…)なかなかいい経験をさせてもらったな、と思っています。
鳥栖駅も行きましたしスタジアムも見ました。諫早も行きました。阪神のキャンプ地安芸は目の前を車で通りすぎました(笑)。

今の職場の先輩からも、当時のことを聞くことが多いのですが、24h365dのうちの職場が休みになったのが、後にも先にもこの震災と、胆振地震の時だけだった、という話はちょっと震えます。

とはいえ、冒頭にも書きましたけど

10年経っても「終わり」じゃないんですよね。今まさに「そのさなか」で痛みをこらえていらっしゃる方、頑張っていらっしゃる方も多く、まだまだ先は長いのだな、と痛感します。

1995年に発生した阪神淡路大震災だって、発生から26年経ってもまだまだ復興が終わったという声を聴いたことがありません。

その後の熊本地震や広島豪雨、胆振地震など、自然災害は幾度となくわたしたちを簡単に巻き込んで、一瞬で大事なものを奪い去ってしまいます。
備えあれば…とはよく言いますが、正直何を備えたら安心できるのだろうかと思うこともあります。

また、昨年からの新型コロナウィルスなどの影響から、相当わたしたちはウィルスやストレスとか目に見えないいろんなものに曝されながら、我慢をしたりいろんなものと戦わざるを得ない状況にあるような気もします。

それでも、毎日目が覚めて、学校や仕事があって、おいしくご飯が食べられて、サッカーが観れて勝ち負けに一喜一憂しながら酒飲んで、オフトゥンで寝る、という

あたりまえの生活

が当たり前ではないこと、当たり前ではなくなってしまうこと、何かあればすぐにその土台は揺らいでしまうこと…忘れがちですが忘れちゃいけないですね。

最近のうちのTwitterアイコンやヘッダーを作ってくださるゼロさん(@ganbareconsa1 さん)がこんなリプを僕にくれました。

これに尽きるよな、と思います。
10年経とうが26年経とうが、目にした光景はそのまま残るんですよね。
景色と一緒に、その時の思いだったり記憶だったりにおいだったり音楽だったりがごちゃまぜになって、渦を巻いてすぐそこに迫ってくるわけです。

ちょっとしたことで記憶って戻るから不思議です。
何だろうね、においとか音楽とか顕著。

そして最近これを思い出しました。
きっかけはヤフーの記事でした。

当時を思い出してしまいそうな方は再生をお控えください

これほんとマジで何回見たか…。これが逆にトラウマになっている方も少なくなさそうな感じもします。いいCMだし、悪気があったわけではないと思うんですが、良くも悪くもキャッチー過ぎたんでしょうかね。個人的には「こだま」がダメです。怖くて。

僕は逆にこっちが好きですが。

こういう時に団結できちゃう職人さんたちってほんとすごい。マジでこのアニメやるなら見たいなって思いましたよ当時。うん。

この先10年も。

10年、というとやっぱりみさっちゃんだよね!
しかしほんと声量が落ちないね、すごい。
これ確か大江千里さんの作曲なんですよね。
あああ切ない…泣かさる…。

でまぁ、10年なんてほんとあっという間に過ぎ去っていくようで、でも過ぎ去れない、立ち止まったまま、動き出せないことだってある。

僕自身もこのnote書くのにあれこれ思い出してくるしくなったりせつなくなったり思い出してうわぁぁぁぁ…ってなったりしたし、それなりにいろいろありながらの10年だったな、と思います。

ただ、この10年がなければ今はないわけで、この先だってないわけです。

この10年、本当にいろんな経験をさせてもらいました。
おそらくこの先10年もいろんな経験をしながら、泣いて喚いてはいつくばって、それでも奥歯かみしめながら前を向いて歩いて行かないといけなくて、でもそこには忘れてはいけないものが確かにあるのだろうと。

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気が付けばほぼ7000文字超、テキスト書きの複業でもなかなか受けない文字数ですがあっという間でした…。
ほんと、意味もなく垂れ流し、かつオチもないのでここまで読んでくださった方々にはほんと感謝しかないです…いつもありがとうございます。

まぁ、10年ひと昔、と括れるほどまだ遠い記憶ではないし、括ってもいけないのだろうと思いつつも。
いつか元通り、まではいかなくても、心から安らげて身を休める日がくるように。

僕は僕なりに何か微力でも力になれたらいいな。
10年オトナになったので、そんなことを考える2021年でした。

ここまでお付き合いありがとうございました。
次回こそは明るいネタでお会いできたらうれしいです。

それではまた。
あおまめでした。

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