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数えられる恐怖と数える安心

数字がつくと安心する

例えば〝国民総背番号制〟とも呼ばれるマイナンバー制度について、導入前から様々な意見があった。現在もこんな運用でいいのか、と思う点は時折みられるものの、大筋としては私は歓迎している。それはやはり様々な行政サービスが縦割り運用されていて、サービスをまたぐたびに最初から本人識別から手続きを始めなければならないのが面倒であるし、また大量の国民に対して公平で公正なサービスを与えるためにはそれ以上名寄せする必要の無いIDが必要だからである。

あるいは、スポーツやゲームで戦力に数えられる、というのもうれしいことである。「一人前」という言葉があるが、戦力に数えてもらえるということは私がいればそれで十分、1人分以上の活躍を期待できるということだからである。また、ランキングの中で自分が何位なのかも気になるし、順位が高ければ当然うれしいものだ。

はたまた、病院で検査を受けて、自分の検査結果の数値を知るのもいいことである。検査は面倒に感じるかもしれないが自分の健康状態が許容できる範囲なのか、生活習慣に修正は必要か、実は精神論ではどうにもならない部分があって投薬などが必要ではないかと検討するための客観的な材料になるからだ。

良い数字を身につけておけば、自分の現在位置を確認でき、安心につながる。

数えられるとゾッとする

数字の良い面、役立つ面を挙げた。一方、例えば「人口」などはどうだろうか。我々は一人一人、数え上げられる。数え上げられることで、数えられすらしない人よりも承認や権利を得られることは、いいことである。しかし、数え上げられてしまえば、他の人とまったく同じ「1人」になってしまう。1というのはのっぺらぼうだ。或る1と他の1との間に何の差別もない。つまり平等だ。しかし或る1が他の1と区別されることでそこには何の絆(きづな)も無くなる。というのは、赤の他人が二人いるのも、夫婦が二人入るのも親子が二人いるのもおんなじ2だからだ。仮に、タグをもっと増やしたり人によって重み付けしたりしても、キメ細かなケアはできるとしても、パーソナルなところには到達できない。私には無数の属性があるからである。

のっぺらぼうとして平等に扱われるのは、それで便利なところもあるが、個性の尊重や個人に思いを致すという点、あるいはそもそも自分は他者に優越したいのだという願望をなで切りにする冷酷な仕打ちだとも言える。それでも集団としてうまくやっていくためには必要なことだから、きっと容認されているのだろう。

また、数えられることに伴う気持ちというのは、おそらく数える側を自分たちの味方だと思えるかどうかというのもあるだろう。もし味方であって誠実であれば、我々を数え上げ計測してもそれを裏切り行為のために使ったりしないはずである。一方、敵から一方的に数えられ観測されるのは脅威である。こういう点からみると、数えるという行為は一見、技術的で価値中立的なようにみえるが、相手と信頼関係を築けているかどうかの試し行為にもなっていると思う。

(1,255字、2023.10.14)





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