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金銭による解決は正しいか? money makes me crazy

誰かに危害や〝迷惑〟をかけたとき、「金銭で解決する」ことはフェアなのだろうか? それともその反対なのだろうか? あるいは正しいことなのか? 正しくないのか?

まず、或る意味、金銭という量的なものによって定量的に正確に二者間の均衡を取ろうとするのは正しいように思える。一方、たとえ両者を天秤に載せて釣り合いが取れるというイメージで金銭による補償が正しいとしても、金銭によって定量化すること自体が我々にとって、あるいは被害者からすれば、道徳的に正しくないことのように感じられることがあるのも事実である。だから、単に金銭や物品などの財によって埋め合わせればそれでよかろうというのは、道徳的には高慢の悪徳の一種とされるだろうし、また別の意味では被害者の潰されたメンツは別の形で回復されなければならない。その回復手続きがどのようなものになるかは文化によって異なるだろう。例えば言葉による謝罪や土下座や平伏などの特定のポーズ、相手の靴などをなめたり、頭髪を丸刈りにしたり、身体の一部を傷つけるといった言わば象徴的な行為と、それを第三者に公開することによって被害者のメンツは保たれるとされる。

しかし、次に、このようなメンツの毀損と回復あるいは再承認は自立性と排他性を持っている。なぜならばメンツを潰された方にとってそれは「カネの問題」ではないからである。そうである以上、賠償と謝罪とは並行してなされることもあるとはいえ、相互排他的な関係にもある。なぜならば賠償が加害の量に対して例えば多額であっても、いやむしろ多額の賠償が提案されればされるほど、自立の意識を持つ被害者ならば「ナメられている」「カネさえ支払えばいいのだと思われている」と不快な気分になるだろうからだ。あるいは、自分の苦痛や恨みつらみが数値化されること自体が、しかもこともあろうに加害者にそうされることが不快だからである。だが、メンツ回復行為が財による賠償を完全に排除してしまえば、それはそれで経済的には正しくないとも言える。

簡単にまとめると、金銭による補償は経済的には正しいが道徳的には正しくないし、謝罪やけじめは道徳的・倫理的には正しいかもしれないが、経済的には正しくない。そして、被害者はこの不当さを両方とるか、片方だけ取るか選ばされるという意味では、たとえ加害者から補償の申し出があったとしても既に二番目の〝加害〟がそこで起こっていて、この異質な二種類の正しさの間を調停する純粋に客観的な、すなわち自然法則のような基準 criterion はおそらく存在しない。そこでみつかるのは判例や相場、儀礼といったものしかない。

加害被害というと大袈裟だが、我々が他者との関係で何のマイナスもプラスもない状態というのはむしろ異常(つまり地球の反対側にいるぐらい無関係)なのであって、何らかのプラマイがありながらもそれをやり過ごして、つまり厳密な意味での〝正しさ〟について考えずに過ごせることが我々にとっての豊かさの一部なのだろう。

(1,239字、2023.12.25)


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