何もせずに生きることはできない;あなたは常に何かを待っている
無としての個人、ハコとしての共同体
私=自己とは無である。なぜならば、私を取り巻く環境も、肩書も、免許も、財産も、人間関係も、病気も、身体も、感覚も、いずれも私そのものではないからである。あるいは、それらはいずれも私が見つめる対象 object として認識可能なものどもだからである。
なお、若さとは自己探索に資源を投下できることであり、すなわち、この「無」へ突進できることである
単なる主体としては「無」ではあるが、そのような自己もさまざまな行為をおこなう主体になることができる。そして、何かをするばかりではなく、何もしないもまた、「無を待つ」ことと位置づけられる。例えば、私も無であるが他人も無であるから、「無を待つ」といえば、他人の訪問を待つことだとも言える。あるいは、超越的な対象に祈りを捧げることも、超越的な対象は現世・俗世においては「無」であるから、「無を待つ」ことに等しいことがある。
究極ゴールを再設定する;北極星をもう一度みつける
人生において目指すべき目標や従うべき規範を見失うことがある。いわゆるアノミー 無規範状態とも呼ばれる。こうしたときの対処法はいろいろあるし、人によって向き不向きがあるし、また、わざわざそのような目標や規範を設定しないのがかえってよいという考え方もあるかもしれない。
ここでは再度目標を見つけるひとつの方法を提案する。それはこれまでの自分の蓄積・実績をリセットして子供の頃、無に近かった頃の欲求を思い出すことである。もし、忘れていた欲求を思い出さればゴールを再設定できるからである。譬えて言えば、自分を工場出荷時の無に戻したり、〝セーフティモード〟〝無課金状態〟で何を欲するか確認することができる。言い換えれば、ずっとその実現を待たれていたが、忘れ去られたままの欲求をもう一度思い出してみることである。あなたは忘れていたが、欲求の方はずっとそこに来てくれていたのである。
この提案では、子供の頃の無への回帰や、あるいは無からの欲求再構築を構想するのだが、むしろ無よりさらに下の「マイナス」を仮設すべきかもしれない。物心ついた子供の頃の欲求をゼロとすると、時系列的にそれより前の欲求とは生まれる前の欲求、つまり「前世」での欲求ということになるだろう。もちろん「前世」での欲求を今回復することなど額面通りの意味でできるものではないが、もしかするとそういうイメージで今拾った欲求を再定義してみることによって欲求実現に向かって「燃える」ことができるというプラグマティックな効果を期待できるかもしれない。
返済を待つ
我々はおたがいに完済不能であり、また完済すべきでもない「恩義」を背負っている。それはときどき「負債」の比喩で語られたり一部貨幣測定され精算される。
例えば、キリスト教の信徒が最後の審判における罪の「償い」と救済を待つように、我々の恩義=「借り」の返済も〝すぐ〟に来るのだが、それまではただ一生の終端を待って暮らすばかりだ。そして返済といっても、最後の審判における特別な「償い」以外では、人生の中ではただ、借り換えたり、返済を放棄してもらう(つまり、贈与され所有する)ことが多い。なぜならば、所有とは返済が放棄された貸しだからだ。
もし恩知らずになりたくないとしたら、つまりそのように謗(そし)られるだけでなく自分自身で自分を恩知らずだと思いたくないなら、恩義を返す機会を取得するまで、生きてずっと待たなくてはならない。ずっとずっと待って過ごさなくてはならない。別の言い方をすれば、たとえ何もせずに生きていると思っていても、「待つ」をおこなっていることになる。極端に言えば、生きていることは何も付け加えなくても「待つ」ことであり、「待つ」限りにおいて我々は共同体に所属している。「待つ」こと、待てることこそ共同体のメンバーシップでもある。
もちろんその間、ずっと恩義について忘れることができないし、少なくとも忘れていないことになっている。
(1,634字、2024.11.27)