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無機質さをもとめる勝利至上主義に人間は必要なのか?

ファンにもフロントにも我慢できなくなり、私がドラゴンズファンをやめたことは前回書いた。むろんやめるとはいえそれまでは愛していた球団と選手であり、選手の事は気になるし本気でファンをやめたくてもやめられていない中途半端な状況にあることはご理解いただきたい。

落合元監督は言った。「勝利が最大のファンサービスである」と。

確かにそうだろう。勝てばファンは喜ぶ。「俺たちは勝った」とチームに自らを同化させて勝利の味をかみしめる。だが負ければどうだろう。自分達の応援は徒労に終わった、そう思いたくはない。そう、「俺たちが負けた」のではない。「俺たちが応援しても負けたチームが悪い」すなわち「奴らは負けた」と自分とチームを切り離し、人によっては攻撃すらする。愛するチームであっても、負けたお前たちに反駁する権利はない。俺は懸命に応援した、正義は我にありと言わんばかりに負けた腹いせに暴れるのはさぞ気分のいいことだろう。

引き分けがあるとはいえ、勝敗が必ず付くのが勝負というものだ。他方が勝てばもう片方は負ける。お互いに勝ちを目指して争っているわけで相手がいなければそもそも勝負が成り立たない。そんな中で勝ちにこだわると周囲は段々選手に無機質な野球ロボットであることを求めるようになる。

楽しそうに練習するな、負けた日にカラオケなんかいくな、遊んでる暇があるなら練習をしろ、エトセトラエトセトラ……

昭和のスポ魂のような精神論が、プロの世界を見るファンという名の周囲には未だに横行しているのだ。高校野球など教育現場では徹底的にそういったことが排除されている方向にあるというのに、プロだというだけでそこがあっという間に取り払われる。「プロだから」ではないだろう。「自分たちがお前たちが負けたせいでイライラしているのにお前たちが楽しそうにやっているのが気に食わない」のではなかろうか。シーズンは長い。次の試合に引きずらない為にも気分転換しているかもしれない。そういう考えは存在しないのだろうか。そして連敗したら「お前たちが楽しそうにしていたから負けた」とでも言うのだろうか。選手に悔しいという感情が存在しないような言い方をする人すらいる。

選手はファンのいいなりになる奴隷ではない。365日24時間野球の事だけ考えて野球の事だけしている野球ロボットではない。勝利至上主義を追求するのであれば、もはや人間が野球する必要すらないのではなかろうか。毎回百パーセントのパフォーマンスができるわけではない。怪我もする病気にもなる、アクシデントがつきものの中で勝利を狙いに行くのは非効率ではなかろうか。人間がやっているスポーツから人間味が消えたら、それは果たして人間が行う意味のある興業と言えるのだろうか。

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