ジングルに花束を

きっかけは、多分、誰かの笑い声を聞いていたかったのだと思う。

テレビのバラエティで、とても剽軽に笑う彼は、先程まで殺人鬼の役をやっていたとは思えなかった。
ある時は実直な外科医。ある時は冴えないバツイチサラリーマン。ある時は現代にタイムスリップしてきた侍。ワードローブから服を選び、彼はくるりと変身する。世間の評価は「希代の俳優」だった。
彼のラジオを付けてみた。
彼は深夜ラジオでパーソナリティを担当している。月曜の深夜、全国ネットで放送中。私は起きていられないのでタイムフリーで聞いている。

ラジオの彼は、とてもよく喋り、笑い、語る。
選ぶ曲は鼓膜によく馴染んだし、私の好きな曲のプレイリストにもよく馴染んだ。
彼がリスナーから弄られて作家と爆笑しているこの時間が、暗闇をあまねく照らして吹き飛ばしてくれるような気がした。そして、深い教養が染み入るようなその声は、もう起き上がる力のない私を掬い上げてくれる。

今日も上司と馬が合わなかった。
「で、誰に届けたいわけ?」
提出した外部広告の草案を眺めながら、上司はそう言った。
「今回は母の日なので、離れて暮らす若い男性をターゲットにしてみまして」
「俺はこれを見て、母の日に何かを買おうとは思わんよ。ターゲットに本当に届くか、もっかい考えてみ?」
散々考え抜いた結果だったのだけれど、そう言われると「はい」と頷くほかなかった。
これで六回目の提出だった。
母の日が嫌いになってきて、自社製品も嫌いになってきた。
好きだから選んだはずなのに。何度も何度もこう思う。そしていつだったか、誰かが言っていた言葉を思い出す。「好きな事を仕事にするな。救いを失うぞ」と。
その人の言葉は、とても正しかったと思う。

今日は終電だった。
初めて彼のラジオをリアルタイムで聴けるんじゃないか、と気づき、少しだけくさくさした気持ちが楽になった。
「こんばんは、海野貝です」
この挨拶を正しく受け取るのは初めてだった。何故か照れ臭い気持ちになる。
なんて美しい名前なのだろうと、思った。
「今日はさっそく曲から流していこうと思います。春ってまぁ、出会いと別れの季節とか言いますけど。そんな大層なことじゃなくたって、多分日々ってそういうことの繰り返しだと思っています。その中で悲しくなったり強くなったり、揺れながら生きていくしかないんだなって、それでいいんだなって思える曲です。今夜は寒いので、暖かくして聞いてください。レミオロメンで、『アカシア』」

ぱちりと目が覚めた。アラームが鳴る一分前。カーテンから差し込む朝日がゆらゆらと揺れている。
昨日聞いたあの曲を流しながら、歯を磨く。オフィスカジュアルってなんなんだ、と自問自答しながら、ワードローブから服を選ぶ。髪を纏め、そろそろ切るか、と思い立った。春だし。ロングヘアの私とお別れの季節、ということでひとつ。

昨夜、彼はこう語った。
「僕はお芝居がとても好きです。だから、お芝居をしていないと苦しくなると思って、俳優という道を選びました。まぁ実際は、もっと苦しい目に遭ってるんですけど」
ハハ、と笑う。いつも大声で笑う放送作家の声は聞こえなかった。
「別に俳優にならなくたって、いくらでも道はあるとは思います。でも、この道を選ばなかったら多分後悔していたんですよね。例えば親しい友人が俳優になっていて、自分が違う世界からそれを眺めたら、きっと『選べばよかった』って悔しくなってしまう。僕はそれが嫌だと思ったんです」
彼の声は、波のようだった。寄せては引いて、呼吸のように胸を満たす。
「幸いにも僕に俳優という仕事は肌に合っていたので、なんだかんだここまでやらせていただいています。いつか本当に満足したら、もう手放すかもしれないですが、まぁ好きに生きていこうと思います!」
そうだったな、と思い出した。
誰かを動かすものを作りたい。ずっと温まっていたその衝動を、どうにかしてやりたいと思った。だから今ここにいるんだと。

今日は暖かな日だ。薄手のカーディガンを一枚羽織って、ちょうどいい気温だった。私が一等好きなミモザ色。
「お、今日のカーディガンいい色じゃん」
出社早々上司に言われ、一瞬びくりとしたが、ちょっとだけ開き直って言ってやった。
「優しさを忘れないように、と思いまして」
どういうことだよ、と鼻で笑われた。

もうすぐ母の日なので、プレゼントを贈った。
プレゼントを贈ることも久しぶりだった。仕事が忙しかったから、というのもあり、なかなか連絡も取れずに心配をさせていた。
たまたま出先で見た広告が、妙に頭から離れなかったのだ。気付くとオンラインショップでカートに突っ込んで、実家の住所を入力していた。
「離れていても話がしたいよ」
色とりどりの花が眩しい広告には、そう書かれていた。

「届いたで、綺麗な花!黄色のツブツブのやつ!」
大きな母の声が電話越しに聞こえる。半年ぶりに聞いたが、相変わらずだった。
「ミモザやミモザ」
「ありがとうなぁ。仕事どうや?」
「ん〜、まぁ、ぼちぼちやな」
忖度でもなんでもなかった。
「こないだの大河も録画してマサちゃんとタカミーとおばあちゃんとオッくんに渡しといたで!」
「回覧板ちゃうねん」
思わず突っ込んでしまった。
「いつでも帰っておいでや」
言いたいことだけ言って、母は一方的に電話を切った。本当に、騒がしい人だ。
今日はみんなに母のことを話そう。
そう思いながら、マネージャーに起床を告げる連絡を入れた。
先週の寒さはどこへ吹き飛んだんだろうと思うような、暖かな朝だった。

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