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【創作】花の日2024

川辺であった不思議な人。
***
 岩場に腰をかけて、爪先を川の水につけていた。お尻は布越しでも熱かった。お尻は熱くて、爪先は冷たい。極端だ。
 炙られながら鳴き喚く蝉たちも、人間みたいに水に入れたらよかったのにね。冷たい水に何もかも、運命さえも任せてしまえたら。
 花を投げ入れた。一本ずつ。それが"正しい"ことかどうかは分からなかった。法律、条例、水質汚染。多分、きっと、もっと現実的で地に足つけた意味合いでは"正し"くなんてないのでしょう。
 緩やかな潺(せせらぎ)聞きながら、花を頭に、茎を下に、切り口から痛みもなく水面に入っていくように。

 夏のこの時期の水辺には怪物が棲んでいる。昔そう教わった。足を引っ張られ、一呑みされてしまうんだって。
 食べに来ないかな。わたしを。わたしを食べに来ちゃわないかな。自分からは行かないくせに。
 向こう岸、遠目に胴長短足の犬が飼主を引っ張って水辺に近付いた。首輪に造花らしきひまわりがついておめかししていた。あの子のことは食べないであげて。あの子には冷ややかで澄んだ川でいてあげて、なんて散々化け物扱いしたのにげんきんだった。

 汗が滴り落ちて、石に吸われていく。川に棲まう化物に食われる前に、わたしたちはすでに太陽の目の前でステーキにされている。今は想像もしたくないけれど、炙り焼きにされている。網焼きに。わたしたちは石焼き芋みたいな存在なんだ。

「釣りをしているの?」
 わたしはわたしのことではないと分かっていながら、顔を上げた。釣り用具なんて何ひとつ持っていないのに。新手のナンパかと思った。こんなところで。屋根のひとつでもあるところでやったほうがいい。かき氷屋のひとつでもあるような場所でやったほうが。
 わたしは眩しさに目を細めた。麦わら帽子がかろうじて見える。虫網を持ち、虫かごを下げたその様は夏休みを堪能する小学生の紋切り型。けれど相手は小学生ではなかった。わたしと同じくらいの年頃だった。茶髪にピアスを空けて、日焼けしている。海にいるはずの属性だと思う。熱波が人をおかしくさせる。暑さは怒りに似ている。そして怒り狂って頭がおかしくなる。内側から外側から焼かれて、燻されて、炙られて。
「見てのとおり、釣りなんてしてないよ」
 わたしの装備は帽子と、液状化したアイスリングと、つまらないポシェットと、花束の残骸と。けれど水辺の化物を釣るという意味では、ある意味では釣りなのだと思う。
「じゃあ、何をしてるの?」
 虫を捕りに来たみたいな服装のその人の腰の虫かごには何も入っていなかった。成果はなし。わたしと同じだ。
「待ち合わせ」
 ナンパくんはこれで退散。
「女の子?」
「男の人」
 はい、退散。帰った、帰った。そのうち川の化物が目覚めるからね……
「オレも呼ばれて来たんだけど、誰もいなくて」
 その展開は考えていなかった。ナンパくんはわたしの隣に屈む。人目も気にせず、わたしは花を一本、川に投げ込む。
「何してるの?」
「餌付け」
 別に他人からどう思われようと構わない。それが海でも繁華街でもなく、こんな鄙びた川辺に出てきちゃったナンパくんなら尚のこと。
「餌付け? 魚がお花、食べるの?」
「魚は食べないと思うな」
「じゃあ何に、餌付けしてるの?」
「川の化物」
 そう、わたしは夏の暑さで気が狂ったの。もう正気には戻れない。けれど狂気に呑まれきれもしない。
「川の化物は、お花を食べるの?」
「お花は食べないよ」
「じゃあどうしてお花をあげるの?」
 ナンパくんも、この夏の暑さに自棄(やけ)を起こしていのだと思う。それに他に、人もいないから。せっかく捕まえた同じ年頃の若い女に必死なのだな。
「食べられてしまったから」
「何を?」
「大切なもの」
 花が潺にぼやけて遠くなっていく。消えるまで見送った。蝉がジージー鳴いている。水色のトンボが水面の上を横切っていく。
「誰を待ってるの?」
「川の化物」
「でも、川の化物はお花、食べないんでしょ?」
 ナンパくんは笑いもせず、必死に訊ねる。これは誤解させている。川の化物は川の化物だ。珍しい水棲生物の異名ではないのだけれど。
「食べるのはお花じゃないよ」
「じゃあ、何?」
「わたし」
 ナンパくんは黙った。黙って、わたしと一緒に流れていく花を見送った。
「じゃあ、なんでお花?」
「勇気が出ないから」
「勇気って?」
「川の化物に食べられる勇気」
 それを勇気というのか度胸というのか無謀というのか、将又(はたまた)、覚悟というのか分からないけれど。
「ここで待ち合わせしてる男の人って、白いシャツの人でしょ」
 わたしはナンパくんを見た。ナンパくんは足元の小石を握って熱がった。
「サンダルで、――」
 ナンパくんは石を投げた。水面で弾む。
「犬に当たっちゃうよ」
「犬なんていないよ」
 わたしは辺りを見回した。胴長短足の犬がいなくなってしまった。それが惜しかった。
「女の子を置いてきちゃったって言ってたから」
「どこで会ったの?」
 ナンパくんは小石を選ぶ手を一度止めて下流の方角を指す。
「あっち」
 手頃な石が見つかったらしい。ナンパくんは小石を掌で転がして冷ますと、水面に投げた。弾んで、飛んでいく。
「花はいいよね。冷たくて」
「温度なんかないよ」
「石よりは冷たいでしょ」
「拾うの、やめたら?」
 ナンパくんは石を探している。
「向こうに届く石は……っと」
「男の子、石遊び、好きだよね」
「届けたいだけだよ、あっちにね。ああ……でも、届かない」
 ナンパくんはとうとうわたしを口説くのを諦めて、石探しに夢中になっていた。
「あ、そうだ。それで頭にひまわり挿してた」
 わたしの手が震える。蝉のジージー鳴いているのがうるさかった。耳鳴りのようだ。
「ここに、こうやって。大工さんが鉛筆挿すみたいに」
 ナンパくんが笑ったのは分かる。けれどぼやけていた。
「ひまわり……」
「うん。黄色い大きな花。多分ひまわりだと思う。変だねって言ったら、好きな子からもらったって言ってた」
 身体は汗をたくさん出して、持ってきた水はもうお湯に変わっていた。これ以上どこをどう絞っても、わたしから塩水は出ないはずなのに。
「わたしが挿した……」
 石が汗を吸っていく。染みは次々と消えていく。
 嫌な思い出だった。昨年の今日、その人はこの川に消えた。溺れた子供を助けに行ったきり、消えてしまった。ひまわりは落ちて、けれど……
「そろそろ行くわ。ここじゃなかったみたい」
 ナンパくんは腰を上げた。ピアスが光り、逆光して顔は見えなくなっていた。
「この花、もらっていってもい? 暑くてさ」
 ナンパくんが花束の残骸に手を伸ばした途端、それは萎んでいく。
「待って。これも持っていって」
 わたしはもうお湯になっていてもおかしくないプラスチックの水筒を手にとった。蓋を外して、みるみる朽ちていく花を挿す。枯れた花が蘇っていく。逆光した人影のなかで白い歯が見えた。八重歯が特徴的だった。

 蝉の鳴き喚く音が澄んで聞こえた。潺の音が心地良い。わたしは立ち上がった。岩の上にわたしの跡が濡れて残っていた。
 向こう岸で胴長短足の犬が飼主を引っ張り回していた。日光に慣れたわたしの目には何よりもそこにあるひまわりの造花が眩しかった。

***