いなくなくならなくならないで

朝家を出てポストを見たら本が届いていたので梱包を剥がしながら階段を降りた。しょっちゅう本を注文しているので、届く頃には何が来たのか分からない。今回はやけに重たい袋だなーと思ったら、河出書房の『文藝』2024年夏季号だった。「世界はマッチングで回っている」というタイトルの、現代における出会いのあり方についての特集に加えて、緊急企画として「ガザへの言葉」という特集も組まれていた。それらとは別の創作枠に、詩人の向坂くじらさんが初めて書いたという小説『いなくなくならなくならないで』が載っていると知ってAmazonでぽちった。向坂さんのことは先月、エッセイ集『夫婦間における愛の適温』で知った。感激して3冊も買って人にあげたり貸したり読み返したりして親しく思っていたのもあって、普段はあまり読まない小説も向坂さんならばと、知人の部活の試合を見にいくような気持ちで購入に至った。目次には知っている名前知らない名前、色んな名前が載っている。文芸誌は単行本とは違って、新たな号が出たら前の号は後ろに下がってやがて見えなくなっていく。更新されるモニター画面に消えていく言葉の数々が、薄っぺらい紙に印刷されて、文字ばかりのカラフルな表紙に綴じられて、全てを読み切る前に本棚にひっこんで、いつか処分されてしまう。ガザへの言葉も、出会いについても。

昨晩は1時半くらいまで近所の安居酒屋で飲んでいた。その前の晩も仕事の人と飲んで、そのあと友達の家に行って朝まで飲んでから眠り、夕方起きてご飯を食べてまた飲みに行き、途中別の友達3人も合流して飲むという慣れないことをした。その面々とはここ数年しょっちゅう約束もなしに集まっては飲み、私は途中で帰って、残った連中は休息の概念もなく飲み続け、太陽が昇り切った頃儀式のようになにか麺類を食べて、解散する。とはいえ酒の席で、なにを話しているということもない。近況を話すということすらない。同じ漫画の話を繰り返し、くだらない冗談でおどけ、歌い、笑う。私は長時間お酒を飲むのも複数人の飲み会も得意じゃない。学生の頃はどんなに好きな人たちの集まりだとしても、集団になった途端に際立つあの、男女の「気」の交差する空間に耐えられなくて、ひとり店を抜けてはしばらくその辺をほっつき歩いていた。ひとりがいい。ベタベタするな。ひとりで聴いてる音楽の話なんかするな。ずっとあそこにいたら、みんなのこと好きじゃなくなっちゃう気がした。
ここ数年よく遊んでいるこの人たちは、私が遊びに加わるよりもずっと前からお互い一緒にいることが当然で、一緒に遊んでいられる今がこれ以上ないほど大切、でもそんなこと言わずともお互いよくわかってるというような幸福な顔を眺めていると、つい時間が経ってしまう。私は彼らのその「大切」には入っていないし、酒の席以外で話したこともほとんどないわけだけど、しょっちゅうこうして顔を合わせていると、その「大切」がうつってくる。それは、そいつが好きかどうかに関係なく、笑っていると嬉しくなったり、疲れていると心配になったりする。そいつが私を好きかどうかも、私がそいつを好きかどうかも、「大切」の前では大差ない。しばらく集まってないと、集まってないなと思う。集まると、別に楽しいわけじゃないのに、みんなの笑顔が嬉しい。1人で帰っても、私の関与しない、けどちょっとだけ関係のある「大切」が、夜と一緒にまだダラダラと続いていることをなんとなくありがたく思う。私は別に喋らない。私は俺らの仲間じゃないけど、それでもみんなのことを「大切」になってきている。

駅へ向かいながら『いなくなくならなくならないで』を読んだ。高校時代に死んだはずの親友から急に電話がかかってきて、住所がないというので、一緒に住み始める。この5年間どうしていたのか、どこにいたのか、なぜいなくなったのか。何も聞かない話さないまま、二人は一緒に暮らす。あんなに会いたかった親友が戻ってきたというのに、私の喪失感はなぜか消えないで、今も穴は塞がらない。あの頃の、17歳の親友とは違ってしまったなにか別の女が家にいる。その女が疎ましくて、嫌いで、好きで仕方がない。私は親友に出て行ってという。親友は死ねって言ってとせがむ。出ていかないし、死ねとは言わない。親友が泣いたら私も泣いて、「生きてるだけですごいよ」と伝えるだけで精一杯。

渋谷に着いた。新南口を出て少し歩いたところにある美容院に向かう。予定より20分早く着いてしまったので、近くの川を眺めながらおにぎりを食べた。日がまぶしい。睡眠不足で頭の奥がボンヤリする。昨日先に帰ったはいいけど、結局3時過ぎまで何をするでもなく起きていた。川の周りは緑が茂っていて、遠くには背の高いガラス張りのビル、手前には背が低くて雨に汚れたビルが乱立している。古いマンションの前で、カップルがTikTok?の動画を撮影していて、私の左隣には、近くの飲食店で働いているらしい外国人が、しゃがんで煙草を吸っている。コンクリートで固められた川の道を眺めていたら予約の5分前になったので、ビルとビルの間の青色に頭を引っ張られたまま店に入った。

美容院には縮毛矯正にやってきた。私はかなりの癖っ毛で、高校1年生の頃から定期的にかけている。お金もかかるし髪も痛むしで辞めたいところなんだけど、どうしても自分のグネグネの髪が好きになれない。グネりだすとムカつくし、真っ直ぐになると安心する。直毛のほうが自分らしい、とかは思わない。見慣れてるのは確かだけど、グネグネを薬で無理矢理真っ直ぐに矯正しているわけだから、素の自分を殺しているようでなんだか恐ろしい。それでも私は昔から型にハマって安心したいという気持ちの強いたちだった。髪はサラサラのほうが綺麗とか、制服のスカートの長さは少し短くないとダサいとか、この漫画が好きだと「この漫画のオタク」のカテゴリーに入れるとか、そういうのを追っかけては普通らしき何かになって、自分の歪みを殺したかった。一昨日ネイルで爪を長くしたのにもそういう理由がある。長くてツヤツヤで何をするにも不便な爪になって、今どきの女の子たちの仕草が自然と分かれば、他人からも自分からも「そういう爪の人」として見られる。そんなのは当然いいことなんかじゃない。枠にハマって安心を得ようだなんて暴力的だ。それでも私は自分の爪を見つめる。人に「かわいいね」と言ってもらう。爪に気を使うような美意識を褒めることは女性への礼儀であるかのような風潮から、相手に好反応を余儀なくさせる。人に人を枠にハメさせる暴力性に鈍感なふりをして、枠にハマった自分と、ハメてもらえた自分に安心する。くだらなくて楽で甘くてキツくて怖い。女とは枠である。女っぽい爪、女っぽい仕草、女っぽい話し方。それが女を女たらしめる。それを欲しい私がまだ私に残っていて怖い。自分にはどうしたってなれない。人は設定じゃない。「女」じゃない。それなのに、友人に、交際者に、爪を褒めさせてしまった。褒めなければならないような爪にしてしまった。それを楽しんでしまった。そもそも素なんていうものはもう残ってないのかもしれない。弱い自分の、小さな、きれいな鎧。わたしは髪をサラサラに、髪サラリン枠の人間にしてもらいながら、『文藝』を読んでいた。爪は文字の上で満天の星のごとく輝く。少し動くと、引いては返す波のように、眩い光をこちらに運んでくる。

髪に薬を塗られるタイミングで本を置いて目を瞑っていると、担当してくれていた女性の美容師さんが「何読んでたんですか?」と話しかけてくれた。表紙を見せて、この『文藝』という文芸誌に載っている小説を読んでいたことを伝えると「すごい〜!」と言われたので、あわてて「こういう人がこういう対談とかしてて、結構ポップな内容のものも多いですよ〜」みたいなことをあれこれと言い訳した。つやつやの爪が「かわいい」ように、本はそれだけでなにやら難しそうで、なにか褒めるべき真っ当さがあって、手に届かないフィールドのように感じさせるとしたらやるせない。そのときは22歳の女性2人が担当してくれていて、本の話から、1人が「でも本読む感覚でTikTok見てます」と言ったので、そこからSNSの話になり、彼女たちのSNS感覚や流行を教えてもらった。

まず、Instagramはディズニーランドに行ったとか旅行したとかの大きなイベントのあとに、時間をかけて編集したものを載せるパブリックなもので、長時間見たりするものではないけど、誰もがやっていて、名刺がわりになるということ。TikTokは、自分の趣味に関連する動画がどんどん流れてくるから長時間見るということと、InstagramやYouTubeほど力を入れないけど、手軽に色んな人に見てほしいとき投稿したりする人もいれば、投稿はしないけどずっと見ている人もいるということ。「え?インスタのストーリーズは?」と聞くと、今はそんなに載せている友達はいなくて、代わりにBeRealで日常をシェアしているということ。
ビーリアル・・・?そういえば最近Instagramのストーリーズで誰かが載せていた写真に、BeRealって書いてあったような気がする。内カメと外カメの画像が、ビデオ通話の画面のみたいに一緒になってるやつですよね?あれカメラアプリじゃないんですか!?と聞くと「SNSです爆」みたいに笑われた。詳細を聞くと、友達申請に承認された人としか繋がれない、写真共有SNSだという。その他のSNSとの違いとしては、投稿していないと相手の投稿も見られないらしい。「でも通知めっちゃくるし働いてると難しいんですよね」と言っていて、なにがむずいのか聞くと、1日のうちランダムに何かお題を出され、そのお題に沿って2分以内に写真を撮影して共有しないと、他の人の投稿も見られないとのこと。そんな・・・と思うけど、その「リアル」感が面白いらしい。iPhoneのノーマルカメラで撮りました、というような、いかに素でいい雰囲気を出せるかが最近は重要らしく、自撮りに加工必須の時代に比べたらマシなのかなあと思ったけど、「大学生は授業中に通知きたらみんなBeRealするし教授も許してるらしい」とも聞くと、SNS中毒具合は重度っぽくて心配。教授泣いちゃうよ。
あとBeRealはスクリーンショットされたアカウントが表示されるらしい。Instagramのストーリーズだとスクリーンショットを撮られて他校の人とかに「これヤバくない?」と回されたりする可能性があるからあんまり載せないとも言っていた。「SNSが嫌になっちゃったりしない?」と聞くと、そいういうとき、私は小説読みたくなりますと1人が言っていた。

美容院で髪を洗ってもらうとき。椅子が完全に倒れるまでと、顔に布を被せられるまでのあの時間は妙に気まずい。眼を覆うガーゼ生地の布は脱脂粉乳のようなにおいがして居心地が悪いし、人に髪を洗ってもらうことの申し訳なさに気を取られてどうも肩が凝る。髪を洗ってもらうときいつも思い出すことがある。たしか美容師の姉がいる人から聞いたことで「後頭部を洗うために頭を持ち上げるとき、お客さんが気を使って頭を浮かせてくれるけど、あれはむしろやりづらくて、体重がかかってないとうまくできない」ということ。それでもどうしても頭をそのまんまぶらんとさせておくことなどできず、良い加減を探ってしまう。20歳そこそこの女性の小さく細い手指に、ボウリング玉みたいな重い頭を完全に委ねるなんてできっこない。べつにそれが大きな手であろうとも、女性でなくとも。浮かせすぎるとやりづらいのであれば、持ち上げてもらうときは少ししか力を入れず、降ろしてもらうときに自分の力を使う、というように最近はしている。

美容院はケアに満ちている。力加減、お湯加減に問題がないか、何時ごろまでに店を出たいか、お手洗いに行くかどうか、飲み物を飲むか、甘いものを食べるか、何か雑誌も読むかと、ことあるごとに声をかけてくれる。『縮毛矯正+トリートメント:8000円』で予約したのに、専門的な技術の提供だけにとどまらず、本を読んでるだけの二度と来ないかもしれない客の服装を褒め、楽しくおしゃべりしてくれ、洗髪が終わったら「お疲れさまでした」と労い、肩や頭のマッサージまでしてくれ、完成したら綺麗になったと褒め、足元の段差に注意を促し、店を出て客の姿が見えなくなるまで頭を下げる。その全てが「仕事」だなんて、1人でパソコンをぽちぽちしている私に比べたらなんてすごい仕事なんだろうと思い、毎回ペコペコペコペコしてしまう。人が笑いかけてくれる。お金を払ったくらいで。8000円では足りないくらい、いつも色々もらってしまう。

サラサラ髪で店を出た。見慣れた自分が鏡に映る。別に似合ってないしイケてもないけど、私は長年の習慣を今月も完遂したことに満足する。いつか縮毛矯正を辞めるときが来るだろうと思う。今ではないけど。そのときはあのグネグネの髪をどうとも思わなくなって、サラサラだった自分を忘れ、短い爪で友達に会って、君のこと好きだ好きだって言いまくって、友達は多分ちょっとめんどくさがって、お酒も飲まずにしゃべってしゃべって解散する。そんな日々が来るのかもしれない。私は今度文芸誌を作ろうとしている。『文藝』とは違った分厚さの匿名の文字、私の「大切」のありかがそこにある。友人が書くそれぞれの「今」を私は束ねて野にはなつ。一緒にいられなくても「大切」が続く。みんなが本を忘れても、それぞれの「いつか」にまた出会う。あの頃の言葉、あの頃の出会い、あの頃の大切に。世界はそうやって回っていく。いなくなくならなくならないで。誰かがそう叫んだとき、私は何をこたえられるだろう。先に帰っても、本をなくしても、大切な何かが、いなくなくならなくならないように。





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