「だれも、何もしてくれない」 南スーダン
2012年、僕はアフリカの南スーダン国に海外出張しました。
日本とはまるで異なる環境に衝撃を受けたことを、今でも忘れることができません。
南スーダン渡航前
この記事の最後で、僕は「寄付をはじめる人」に変わります。でも南スーダンに行く前はこう思っていました。27歳のときです。
「寄付?僕のメリットはなに?」
「どうせ中抜きとかされいるんだよね?ならしないほうがマシ」
「寄付より飲みに行くほうにお金を使ったほうが楽しい」
今考えると、とても自分本位な20代だったと思います・・・
初の海外出張
大学を卒業後、僕は国際航業という企業に入り航空写真測量のエンジニアとして日々目の前の仕事に邁進していました。簡単に言うと地図をつくる人。入社してから、海外で仕事がしたいです、と言い続けていたこともあり、入社5年目のときに海外出張の話をいただいたのです。
部長に呼ばれ部屋に入って言われた最初の言葉が、
「南スーダンという国知ってる?」
でした。
南スーダンは、アフリカの中央にあるスーダンという国から独立を果たした、当時は世界で1番新しい国と言われているところでした。独立して1年後くらいに出張の話があったのです。
仕事の内容は、南スーダン第2の都市マラカルの都市計画マスタープラン作成のために、基盤となる地図を製作することでした。期間は2ヶ月間。
僕はその場で「行かせてください。」と即決しました。
JICA(国際協力機構)の案件ということもあり、国のプロジェクトとして、またエンジニアとして海外で活躍できるんだ!という高揚感にあふれていました。海外出張は初めてでしたが、専門業務や海外出張の経験が豊富な上司の政野さんという方と同行できることがわかり、不安は吹き飛び、全身全霊で貢献しようと感じてました。
過酷な環境
南スーダンに到着してから、現地で単独で移動することは危険をともなうという理由から運転手を雇いました。デンという20代後半くらいの男性です。彼は以前からJICAプロジェクトで雇われていたこともあり、すでにPCやインターネット回線の機材を持っており、それらをうまく活用していろいろな情報を収集する賢い運転手でした。
仕事でフィールドを歩かないといけないときは、その都度デンが問題が起きないよう地元の人たちと話してくれたり、「ここから先は地雷が埋まっている可能性があるから入るな!」などと助言をくれたおかげもあり、仕事は順調に進みました。
とはいえ南スーダンの環境は想像以上に過酷でした。
日中は40℃近くになりますが、仕事場やホテルにはクーラーがなく、扇風機だけで暑さをしのいでいました。夜は寝苦しく何度も起き、朝が来ても寝た気がしない日が続いたことはとても辛かったと記憶しています。
蛇口から出てくる水はたいてい濁っており、ひどいときは茶色でした。マラカル市の横を流れるナイル川の水を引っ張ってきて、浄水もせずにそのまま流していたのです。シャワーの水も茶色のため、体をキレイにしているのか汚しているのかわからないほど。
ある日、めまいと光熱にうなされ、起き上がれなくなったときがありました。38度を超える高熱。マラリアにかかってしまったのではないかと不安でした。
そんな不安で苦しい中お世話になったのが一緒に渡航していた政野さんです。政野さんは、起き上がれずにいた僕に部屋までご飯を運んでくれたり、腰のマッサージをしてくれたり、冷凍庫がなく氷が作れなかったため、冷蔵庫で冷やした瓶ビールを首元にあてて熱を冷まそうとしてくれたりと、親身になって看病してくださいました(足を向けて寝られません)。
おかげで2日ほど寝たら症状も回復し、また仕事に戻れるほど元気になりました。
そのときは、「自分は辺境の地でほんとうによく頑張っているな」という思いがありました。しかし、それはデンが連れていってくれた川辺に住む人々を見るまでは、です。
「誰も、なにもしてくれない」
ある時、お願いしていないにも関わらず、運転手のデンが市内の中心部からはずれた川のほとりに僕たちを連れて行きました。
車を降りて遠くから川を眺めているときはわからなかったのですが、川に近づくにつれ岸辺にいるたくさんの人が目に入ってきました。
岸辺には木々が生い茂っており、その下に数多くの大人や子どもたちがいました。どうやらそこに「住んでいる」ようです。ただ家らしい家はありません。多くの人が木の枝に破れたブルーシートをかけていましたが、それを「屋根」の代わりにしていました。とうてい雨風をしのげるものではありません。
「屋根」の下にゴザのようなシートを敷して、生活で必要な雑貨がいくつか置かれている程度でした。敷物の上には、痩せこけたうえ、うつろな目をした人たちが何をするともなしに座っていました。子どもたちもまったく元気がありません。着ている服はボロボロに破れて汚れきっていました。
子ども抱えた1人の母親がじっと、こちらを見つめてきました。僕はたじろぎ目をそらしてしまいました。言葉は発していません。でも強く何かを訴えてくる目でした。
そこで運転手のデンがおもむろに言いました。
「誰もなにも、子どもたちにしてくれないんだ」
僕は呆然としデンに何も返答できませんでした。何と言ってあげるのがいいのかわかりませんでした。国のプロジェクトで来ているという自負があったのですが、いま目の前にいる人たちに僕は何もしてあげられない。「頑張っている自分」などはまったく意味がない。そこでは自分の存在価値はまったくないとさえ感じました。
デンは、インターネットの使い方を知っています。自分の国のことだけでなく、世界のことも理解していたはずです。恵まれた国で暮らす人々の様子、自分たちの住む世界との違い、先進国の子どもたちと目の前にいる子どもたちとの境遇の大きなギャップ。
デンは国の政策に対する不平不満や、現状に対する憤り、自分の生活のつらさなどは一言も口にしませんでした。ただただ、子どもたちのことを気にかけていました。
世界の中では豊かなほうにいる日本から来た僕たちに、彼は、自分たち、特に子どもたちの現状を知ってほしい、理解してほしいという思いがあったはずです。何でもいいから、子どもたちのために何かをしてほしい、と。
だからこそ、あえて川辺に住む人たちのところへ僕たちを連れていったのだと思います。
「何でもいい、いまできることをしよう」という思いのもと、帰国の途につきました。
今できることをする
帰国後、僕は開発途上国で子どもの支援活動に注力するNPO/NGOへの寄付を始めました。ほんとうにわずかではありますが、自分ができることをしたいという思いからです。
もっと多くの人が寄付をするようになればいいと願っています。ただ以前の僕もそうでしたが、何かきっかけがないと寄付に対する積極さはなかなか生まれにくいと思います。
2014年に訪れたスリランカ(「リタトリップのはじまり スリランカ編」)では、『自分がしてほしいことは、まず人にしてあげること』という利他の心を現地のタクシー運転手に教えてもらいました。
この運転手のように、気負うことなくさっと人に手を差し伸べてあげられる人があふれれば、きっと世の中はもっと良くなる。そう信じています。
僕は今自分にできることを、やっていきたいと思います。
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