11/9『トルーマン・カポーティ 真実のテープ』・乗代雄介『旅する練習』

  11/9(月) 渋谷Bunkamura ル・シネマというところで『トルーマン・カポーティ 真実のテープ』を見た。
  上映の始まる19:30の少し前にロビーに着き、渋谷の人波にそびえる東急プラザの入り組んだ岩礁にひっそりと取り残された潮溜まりのように凪いだル・シネマの空気に戸惑ったまま浮ついた気分で着席したからか、上映までの数分、自分達を含めても6,7人しかいない会場内の静けさにはほとんど胸が壊れそうになった。そんな緊張感すら楽しかったと思うのは、「こんな人のいない映画館で『トルーマン・カポーティ 真実のテープ』なんて映画を見る自分、いいやん。」という気持ちと無関係ではないだろう。たくさんのそういう気持ちが積み重なって(もちろんそれだけのわけはないけれど)東京芸術劇場なんかができていると思うと、なんだか愉快な気分になる。

 映画そのものはトルーマン・カポーティの関係者へのインタビュー集といった内容で、映画館に行くこと自体が一年半振りくらいの自分には大きなスクリーンを眺めているだけで楽しかったけれども、カポーティの書いたものを好きでなければ退屈だろうと思う。
 カポーティの養女や友人たちへのインタビューを通じて彼らから見た在りし日の姿を浮かび上がらせる、というよりは、愛に飢えた美しいゲイの妖精という人物像に向かって収束していくように映像が構成されていたように思う。本作の最大の焦点である『叶えられた祈り』執筆の謎に関しても、―カポーティは出自が卑しかったので、社交界に憧れと軽蔑の両方を抱き、それが『叶えられた祈り』を書かせました。―といった明快な答えを出せるように、この映画は作られている。ありきたりな見方だからこそ反って真実味もあるけれど、そもそも、人の生い立ちと振る舞いと書いたものっていうのは、そんな風にAだからBでCを書きますというようなものだったかい。幼いカポーティが母親に捨てられ老いたミス・スックと共に少年期を過ごしたことと、彼の才能、社交界、薬物依存は、歯車やネジのように噛み合って彼の生涯を組み立てていたのではなくて、カポーティという真っ暗な箱の中にすべてが詰め込まれていてどれがなんだかわからない、それを掻き混ぜたら『叶えられた祈り』が世に出ていました、そういう風なんじゃないのかい。カポーティは、そういった記憶と感情の持つわからなさに『ミリアム』や『冷血』で挑んでいたように思う。結果的に批判のようになったけど、動いて喋るカポーティの映像を見ることは楽しかったし別にいい。

 ということを、映画を見た次の日に考えた。いつもいつも考えるのに時間がかかってしまうので、人と映画や芝居を見た後に大した事が言えた試しがない。

 ところで映画を見る前、渋谷駅に少し早く着いたので駅前の啓文堂書店で群像の12月号を買った。乗代雄介の新作『旅する練習』が掲載されている。タイトルにある「練習」という言葉からは、彼が前作『虫麻呂雑記』に載せた「描写の練習」、そして彼に練習という言葉をもたらしたアオサギの姿を彷彿させる。目次には簡単な紹介文が載っていた。

「歩く、書く、蹴る」―。小説家の私はサッカー少女の姪っ子と練習の旅にでる。書くことで世界を見つめる気鋭の意欲作。

デビュー作『十七八より』にはウェイン・ルーニーにまつわる印象的なエピソードがあったり、『虫麻呂雑記』では著者が日産スタジアムで横浜Fマリノス対サガン鳥栖の試合を見た時の出来事が語られたり、彼自身サッカーが好きなのだろう。ついでに言うと彼のブログ『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』には野球にまつわる創作が驚くほど多くあり、どうやらそもそもがスポーツ好きであるらしい。創作での扱われ方の差からして、サッカーよりも野球の方をボケやすいスポーツだと見なしている節がある。こうした作者の癖や前作からの思考の流れが見えてくることは一人の作家を追いかける喜びの一つだ。

 今作は瑞々しい会話と描写に溢れて、これまでの作品にあった書くことと読むことで自らを窒息させるような切迫感はやや薄れ、見る・書く悦びが前面に出た明るいトーンの小説になっている。筋立ても明快で読みやすく、これまでの乗代雄介の著作の中でも多くの人に親しまれる小説になるだろうと思った。(2021.1.24追記:著者ブログにて、今作が「筋立ても明快で読みやすく」なっているのは作中の書き手がプロの小説家だからだ、という説明がされていた)

 作中の書き手「私」にとっては書くこと、四月から中学生になる姪の亜美にとっては蹴ることの練習の旅、利根川沿いを歩く中、二人はたびたびカワウを見かけ、姪は、魚を捕るために作られたようなカワウの姿、一つの機能に生命の全てを傾ける生き方を気に入る。人間はサッカーをしなくても死なないから、サッカーをするために生まれてくることはできないけれど、それを乗り越えて生きることの全てを練習にすることはできるだろうか。
 僕はどうやらこの小説を入り込んで読みすぎたようで、今、下に書き写す『虫麻呂雑記』の一節は彼の姪のために引くのだという気分でいる。

エサを求めて歩き回る姿がこれまで目にした成鳥よりもぎこちない。練習という言葉が思い浮かんだ。
 例えば遡って彼が幼鳥の頃、親と並んでエサを捕らえる姿を見れば、もっとはっきり練習していると思ったはずだが、その時に使う言葉と大して変わらぬ意味で、今、練習という言葉を思い浮かべている。つまり、いつか練習でなくなるものとしての練習。しかし、それがいつ練習でなくなるのか、何者かが判断をつけられるものだろうか。彼の顔や首に成長の徴である濃紺の線が浮かんでくれば、彼の足つきが水の抵抗を限りなくゼロに近づければ、それはもう練習でなくなるのだろうか。そんなはずはないというか、それは練習という言葉がもたらす論理なのだから、それを持たない動物がやっていることは終わることのない練習と捉えていいような気がする。その時の練習という言葉は、もっと生き方の全てを含むものとなり得る。逆に、そのような言葉は、人間にその実感がない以上、生まれないものなのだろうか。
 この池でアオサギの成鳥が見事にカエルを捕らえたのを見たことがある。彼は池をのぞきこんだままその時が来るまでの一時間近くをほとんど動かずに過ごしていた。獲物をひたすら身じろきもせず待っていたあの姿。獲物を待っている(これも怪しい言葉だが)熟練したアオサギに我慢や忍耐などの苦を連想させるものは何一つ無いのかも知れないというのは、とても楽しい想像で、揺るぎない希望だと感じる。そのように書くためには、どれだけここに通えばいいのだろう。
(『虫麻呂雑記』―『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』国書刊行会‐pp.605‐606)

 「終わることのない練習」は、過程があって結果を出すような性質のものではない。姪が感銘を受けたカワウは、その生涯を魚を捕ることに注ぐが、決して利根川魚捕りキングを目指しているわけでも、死亡時累計漁獲高を稼ぐために潜水を繰り返すわけでもない。すなわち、生きることの全てを練習とするなら、結果など考慮の外にあり、中学でレギュラーになれたかとか、プロのサッカー選手になれたかとかそんなことではなく、サッカーをする、サッカーを上手くなろうとする現在こそが生涯の全てであり、姪そのものでもある。終わることのない練習ならば、あらゆる時点は過程であると同時に到達点であり、上手くなろうとする現在が生きることの全てなら、結果という言葉すら無意味になるし、誰にも見られていなくたって何の問題もないはずだけれど、それを本当に受け入れることができるか?ということをこの小説は問うている。
 幸運にも、というべきか、練習する姪の隣には、その姿を見ることにかけてはこの上なく誠実な小説家の「私」がいた。姪の姿が直接にどれほど書かれたかに関わらず、いつか全てが書かれることを信じる小説家の目を通じて、姪はあらゆる事物の中にその姿を宿らせるだろう。それをもって救いだと思ってしまうのは、カワウのように生きることを目指す者への冒涜だろうか。

 読み終わって、この小説の主題歌ともいえる『おジャ魔女カーニバル!!』を聴いていたら、なんだか涙が出てきた。歌詞を書いておく。

『おジャ魔女カーニバル!!』
歌:MAHO堂
作詞:大森祥子
作曲:池毅


どっきりどっきりDON DON!!
不思議なチカラがわいたら どーしよ!?(どーする!?)
びっくりびっくりBIN BIN!!
何だかとってもすてきね いーでしょ!(いーよね!)

きっと毎日が日曜日 学校の中に遊園地
やな宿題はぜーんぶゴミ箱にすてちゃえ

教科書みても 書いてないけど
子猫にきいても そっぽ向くけど
でもね もしかしてほんとーに できちゃうかもしれないよ!?

大きな声で ピリカピリララ
はしゃいで騒いで歌っちゃえ
パパ ママ せんせ ガミガミおじさん
”うるさーい” なんてね 火山が大噴火

お空にひびけ ピリカピリララ
とんで走ってまわっちゃえ
テストで3点 笑顔は満点
ドキドキワクワクは年中無休



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