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まるで耽美な映画、『聖なる春』

古い土蔵のなかで、世紀末ウィーンの画家クリムトの贋絵を描いて暮らす「私」を時折訪ねてくる不思議な女キキ。
そのキキが描く肖像画には秘密があり、やがてひとつの「事件」が...。

やって来ない「春」を待ち続ける登場人物たちの静かで哀しい日々を、クリムトの絵画と懐かしい映画に寄せて綴る、爛熟の香り高い長編。

(帯より)

美しく物悲しい、贋作画家の恋と死。

1996年刊行。タイトルは分離派の機関誌『ヴェル・サクルム(ラテン語で「聖なる春」)』による。

久世光彦さんの美文についていつか書いたそのままに、耽美で知的にエロく、映画のように情景が浮かび上がってくる。この方の本はいつでもそう、だから愛おしく狂おしい。

仲間の画学生をモデルにしても、新鮮な果物を目の前にしても、老い朽ちる姿でしか描けない呪われた宿痾のようなものを抱えたキキ。

「私」の描いたクリムトを売る醜い画商フランソワ。

僅かの登場人物で織りなす、戦後日本のムード。灰色の春待ち人を描く退廃。

もう何年も鏡を見ない、頬に醜い火傷の痣を抱えた50歳をとうに過ぎる私の住む蔵へ、キキはやって来る。周囲からは父娘に見えているに違いない。

肌を重ね合っても、気づけば少しだけ離れた場所でキキは寝息を立てている。彼女の去った今となっては、愛の残滓と喪失の疼きがあるばかりだ。

最後でキキがくれた奇跡は、まだ痣のない少年の頃の「私の肖像」、救いのピエタとなったキキの聖性に穏やかな安らぎをもらい物語は幕を閉じる。

久世氏自身の投影にみえる魅力的廃人「私」と、キキの愛らしい蠱惑、対比するようにブザマな画商フランソワの醜い死に様がゴシック。
久世氏の作品はほんとうにハズレがない。

ちなみに、わたしが『ウィーン世紀末展』でグスタフ・クリムト(1862~1918)を観たのはもう15年も前の話。
当時の日記を読むと好印象のようであるのに、いま改めて聞かれれば、好きではないそう答えるようになってしまったのは何故だろう。

たくさんのカラー図版を収めた本書の冒頭にも登場する、『牧歌』ldylle(1884)は初期の写実的な宗教画風で当時も好きだった。
『ブルク劇場装飾画』の2点(1886~88)、『ピアノを弾くシューベルト』(1898~1899)など若き日の写実画は好みだ。
反対に、ウィーン分離派以降、クリムトの描く女にどうも寄り添えない。
挑発的に解放された性的な女たちと奇抜な金泥絵画は、ドキュメンタリー映画を観て知ろうと努めてみたけれどダメだった。

当時『ハイファッション』誌に連載された本書は13枚のクリムト絵画と共に、モード系を愛する美的感覚に優れた人たちを魅了したのかもしれない。


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