見すぎるぐらいに見透かされ
今日、しまむらに調査捕鯨に出かけたら。
驚いた。
ショートパンツが縦に割れなくて、ファスナーもなく、見せかけのボタンが真ん中にデンと付いている。
これを、ショートパンツ990円と騙って売るのだから。
いかんでしょう。勝手に服の歴史変えたらいかんでしょう。
しまむらは服が好きな人が作った会社ではないな。
服が好きではないと言えば、思い出すのはあの方である。今は亡き加藤智大死刑囚もまた、服を憎んでいたと覚しき。
彼はファッションが嫌いだと公言していたし、そういう事でネット上の女の人に絡んだりもした。
服で男を選ぶのか。結局外見かよ、と。
結局外見か。
この言葉の根は深い。
それを言うなら、利休や芭蕉も視覚から多大のインスピレーションを得ていたはずである。視覚に頼って何が悪い?
外見。服や小物を愛するという精神がある。見てくれにこだわるという精神がある。そこには精神が宿るのだ、たぶん。
物を大切にする。見てくれにこだわり、身なりをきしっとする。ちゃんと見られたいという欲求。そのためにかける時間という対価が、暇という時間を効果的に消し去る事例もある。
ちゃんと見られたいという気持ちは伝わるのだと思う。それもせずに、胡散臭い若いだけの男が女に声をかけたとしたら、迷惑だと思われるだけだったのではないか。
それは内面を見ないと言うことではなくて、むしろ見すぎるぐらいに見られてしまっていたのかもしれない。
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