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初めての取材は金魚。忘れられない夏の1ページ。

初めての取材は、金魚だった。

25歳の夏だった。

突然の上司からの命令で、僕は大和郡山へ行くことになった。

金魚を取材せよ。詳しくは、デザイナーのHに聞け。そう言い残して、コピーディレクターのK氏は、夜の闇へと消えて行った。

相談したデザイナーのHさんは、丁寧に僕に話してくれた。

農業新聞という媒体にS社のウイスキーのシリーズ広告がある。日本一と言われる農業特産物を現地で撮る、合わせて、その特産物の生産者に取材した一文を写真とともに載せる。君は、その取材文を書く。取材も君がする。わかるね。例えば、今までに出した広告は・・・・これは、京都の聖護院大根で、これは、佐賀のイボイボキュウリで・・・・。と小一時間くらい説明してくれた。そして、次の取材が、明後日で、大和郡山に金魚の取材をしに行く。Kさんが行く予定だったが、急遽、大きなプレゼンが入って行けなくなった・・・

それで、僕・・・・なんですね? そう、それで、君になった・・・わけ。

当時の博報堂はまだ成人になれていない少年のような会社で、仕事が突然、舞い降りてきたり、スケジュールが突如、変更になったり、上司が急に逃亡したり、スタッフが勝手に仕事を降りたり。もう、混線した電気回路のようにあちこちでショートして、あちこちで火花がパチパチ散っていた。

若いクリエイターが多くて、そんなあちこちのドタバタを悲鳴を上げながらも、なんとかこなしていた。きちっとしたルールがない不安もありつつ、むしろ、その破茶滅茶を楽しんでいた感も「十分に」あった。若い伸び盛りの力で、職場はふつふつ沸騰していたのだった。

しかし。困ったことに、駆け出しコピーライターの僕は取材というものをしたことがなかった。取材の聞き方も、進め方も、まとめ方も、書き方も、何がなんだか見当がつかなかった。未来が形として見えてこなかった。

途方に暮れるってこういうことなんだと、自分のデスクで、夏の夕暮れの有楽町に沈んでいく太陽を見ながら思ったものだ。二つの「暮れる」が、同時に訪れた、その心細い感覚を今でもはっきりと覚えている。35年以上も前のこと。

僕はともかく、東京から新幹線に乗った。デザイナーのHさんと、カメラマンのAさんと。その日もウンザリするほど暑い夏の日だった。

小型テープレコーダー(テレコ)の練習は何度も何度もした。テレコは取材の欠くべからざる必需品だ。取材と同時に、必ずスイッチを入れるんだよ、必ずね。そう繰り返し先輩たちに言われた。管理部で会社の備品を借りた。電池の予備ももらった。

出張票を管理部に出したからだろう、管理部のおじさんが、「黒ちゃん、大和郡山行くんだってね。金魚の産地だよね。うまいもん食って帰っておいでよ、金魚は食えないけどね。あははは」と声をかけてくれた。大和郡山が金魚の一大産地であることをその時に教えられたのだった。

新幹線をどこで降りたかの記憶はまるでない。名古屋か、京都か、どちらかだと思うが、まったくの空白になっている。緊張していて、記憶する脳が働いていなかったのかもしれない。

記憶はいきなり、夏のチリチリと燃えるような日差しの大和郡山の街並みになる。古い城下町の静かな佇まい・・・・。そして、次の記憶は、大きな池になる。満々と水をたたえたいくつもの池の映像になる。キラキラとギラギラと強い陽に反射する水面の光が目の前に現れ出てくる。

そこで、僕は、ひとりの名人に会った。

中年を過ぎた、日焼けをした、引き締まった顔の、金魚を育てる名人だった。西川さんと言った。僕はまだ若い馬の骨で、相手は名人だった。どう話そうか、そのちょっととっつきにくそうな顔を前にして、緊張が押し寄せて、胸いっぱいに息苦しいほど満ちてしまった。

そして、そう、僕は、テレコのスイッチを入れるのをすっかり忘れてしまったのだ!!

(つづく)

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