『たまごの祈り』㊺

「柳さんの手を見せてもらいに来たんだ」
 今村くんがそう言って突然大学に現れた日、私は学食のテラス席で透子とお茶を飲んでいた。その日は良く晴れていて、透子はフレンチトーストとコーラ、私は目玉焼きパンと紅茶を売店で買って、向かい合って座っていたところだった。
「柳なら授業であと一時間くらい戻らないと思いますけど」
「そうだったかー、じゃあここで一緒に待たせて貰っていい?」
 私たちが返事をする前に今村くんはもう席についていた。今村くんは透子に、伊田さんのお友達?初めまして、と流れるように挨拶をし、透子は、どうも、と軽く返事をしてすぐフレンチトーストに向き直り、幸せそうに頬張って見せた。
「ねえ、なにこの子高校生?あ、初めてうちの大学来たならこのフレンチトースト食べた方がいいよ美味しいから。ねえ、それで蒼衣、この子誰なの?」
 透子はもぐもぐしながら隣に座る青年について尋ねた。
「俺は今村って言います。歳は伊田さんのひとつ下で、フリーターで旅行とか行ったりしてるんだ。」
「ふーん、旅行好きなんだ、確かにアクティブそう。私透子って言って蒼衣と同期ね。よろしく」
「トーコさんね、すごい美人じゃん、俺、トーコさんの手も見せて欲しいな、ちょっと握手させて貰っていい?」
「蒼衣さ、翔太郎といいあいかわらず変な子と知り合いなのね。いいよ、手くらい好きなだけ触んなよ、なに、新手の口説き方?」
 今村くんは透子の手を握ってじっと見つめ、案外爪短いんですね、ありがとうと言って笑った。ちょっと手の写真だけ撮っていいですか、と言って、てのひらと手の甲の写真を撮って笑った。今村くんは、うん、すごくいい手だ、と言って、トーコという名前を手帳のメモに残した。
「今村くんは、柳と透子の手を作るの?」
「うん、そうだな、トーコさんがよければトーコさんにもぜひお願いしたいかな」
「え、なに何の話よ?」
「俺、会った人の手を、粘土みたいなの使ってオブジェにしてるんです、それで今度伊田さんと一緒に二人展みたいなものを開こうって話になってて」
「えっと、今村くん、その話なんだけど」
 自分が作っているものは人様に見せるようなものじゃないし、二人展をやるかどうかについては悩んでいて、もう少し考えさせて欲しいと言おうとしたとき、今村くんはこちらを向いてにっこりと笑った。
「もう会場も押さえてあるから。ね、いいよね伊田さん」
 今村くんは行動的な人だとは思ったが、まさか会場まで決めているとは思っていなかった。こうなるともうどうすることもできないので、私は曖昧に笑いながらパンを囓った。
「ねえ、蒼衣、ニニンテンってなに」
「伊田さんはたまごの彫刻掘ってるんだ。俺の作品と伊田さんの作品を観てもらう機会を持とうと思っててさ。伊田さんのたまご、めっちゃ素敵なんだよ、トーコさん見たことある?」
「なにそれしらないんだけど、ちょっと見せてよ蒼衣」
「写真持ってるよ俺、柳さんが撮ったやつ、待って、見せてあげる」
 今村くんは写真を何枚か取り出し、テーブルに並べた。それは私が初めて柳と会ったとき、柳が買っていった幾つかのたまごたちの写真だった。どうやら、柳の部屋の窓辺に並べられているものを撮ったみたいだった。
「へえ、かわいい、蒼衣器用なんだね。ねえ今度この柄で私のネイルやってよ、千鳥格子のやつ」
「ね、素敵でしょ。伊田さんの作品、本当に色んな人に見てもらいたいんだ俺」
 自分が作ったものを柳に撮影されているのはなんだか変な感じがするけれど、柳があの家で写真を撮っているんだなということは、とても嬉しかった。彼は彼がやりたいことを、私と住んでいる家で、呼吸みたいに気ままにできているということは、私を安心させた。
「いい写真でしょ。柳さんにはこういうの何枚か撮ってもらって、個展のチケットとポストカードにしようと思ってて。実質三人展って感じになるかも」
「へえ、かわいいじゃん、ポストカードもいいけどさ、蒼衣、これ小さいの作ってピアスにしようよ、ハンドメイドのアクセサリーとかあったら私買うわ」
 なんだか自分だけ置いて行かれてどんどん話が進むので、なんだか逆に落ち着いてしまった。紅茶を飲んで、いつまでに何を作ればよいのか、ぼんやりと考えた。自分が作ったものを会場を借りて展示して見せるなんて、考えたこともなかった。
「今村くんは、なんで個展みたいなことをやろうと思ったの」
 私は紅茶を飲み干して何の気なしに訊いた。
「それは、なんも始まらないからかな、知ってもらわないと」
 今村くんは当然のことだと言うように、私の目をじっと見つめて言った。
「俺、好きなんだ、出会ってきた人のことも、新しい街の景色のことも、足を動かすことも。だから旅行に行くし、忘れないように出会った人の手を作ったりもする。俺が好きなことをやって、それを知ってもらって、もしそれで人の心を動かしたり、好きなことで飯食ったりできるようになったら、それってすげー楽しいと思うし、その可能性を捨てないことは、なんていうか、夢みたいなことかも知れないけど、純粋に賢いと思うんだ。幸せな気持ちで生きたいじゃんか、どうせならさ」
 あたまに大きな石をぶつけられたみたいだった。今村くんは、理想を現実にしようとするエネルギーのままに、そこに生きていた。ほんとうに同じように心臓がある人間だとは思えなかった。目が回って、私はただちに死にたくなった。私はこういう人にとても弱いし、こういう人がとても羨ましくてとても好きだった。それは、自分には手の届かないところにいる人の書いた本を読んだり、自分が一生辿り着けないと思っている場所に、当然のように立っている人を見てしまったときの、明確で愚かな屈辱だった。
「だから俺は自分が作ったものを色んな人に知ってもらいたいし、伊田さんが作ったものだって俺の好きな作品だから知ってもらいたいし、柳さんの写真も好きだから、きっとやることやれば、すげーいい展示になると思うんだ」
 それはほんとうの好奇心で生きている人の眼だった。私は、とても打ちのめされてしまって、何も言うことができなかった。自分は何もせずにこの人の熱意に乗っかって、ほんとに作品としていいものが見せられるのだろうかと、恥ずかしくもなった。
「へえ、案外いろいろ考えてんのね」
 透子は飲み終わったコーラのグラスの水滴をなぞりながら言った。
「で、今村はどんなの作ってるの、見せてよ、気になるじゃん」
「トーコさんも会場に来てくれたら見せてあげるよ、ね、伊田さんもトーコさんに来て欲しいでしょ」
「え、いや、私は、どうかな」
「いいじゃん、楽しそうだし行くよ私。翔太郎がいない時間にだけど」
 じゃあ私そろそろ行くわ、次授業あるし、と言って透子は立ち上がり、お皿の載っていたトレーをさっさと片付けて行ってしまった。
「トーコさん、すげー美人でさっぱりしてていい人だね」
「まあ、確かにある程度いい人ではあるし、変な人ではあるよね」
「いいなあ、大学生。俺勉強そんな得意じゃないから、なんも考えずに高校出てすぐバイト生活でさ」
「いや、今村くんはすごいよ」
 私は、今村くんや透子や、柳や、直也くんと由香里さんのことを考えた。なんて私、何も考えてないんだろう。海外に飛んだり、夢を現実にしたり、私が悩んでいる間にいつのまにかすごい人間たちに囲まれて、彼らは彼らの人生を生きていて、私はただときたま手を動かして、うとうとしながら講義をきいて、それから、それから、どうなるというのだろう。もう、自分のやりたいことがわかって舞台に立ったり、どうなりたいか語る意志を持ったりしている人はこんなにいるのに。そうだ、直也くんは、なんでいなくなっちゃたんだろう。やりたいことをやっていくのは、やっぱり大変なんだろうか。なんなんだろう私、私はちいさくちいさくなって、降りてくる大きな動物の平たい足や、河原に転がっているコンクリートのような石や、そんなようなものに、ひと思いに押し潰されたい気分だった。

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