『たまごの祈り』⑭

 私はソファを置いたことにとても満足して、その部屋の私にとって真新しい床に寝そべった。アウトレットの安物だけれど、淡いグリーンの二人掛けのソファのある空間を、私はとても気に入っていた。
 起き上がりベランダから外を覗くと、冷たい風が頬や首元をここちよく冷ましてくれる。新居も川沿いだったので、かすかに水の流れる音と、向こうの土手のほうでキャッチボールをしている親子の笑い声が聞こえて、私は永遠にこの平和な午後に住み着きたくなった。春になったらシソを植えるつもりで買っておいた、青くてざらざらとしたちいさなプランターをベランダに置き部屋に戻ると、すぐに窓が曇り水滴の小さなつぶが外の世界をほのかに白くした。木製のテーブルに普段使いもしないコースターを並べてみたりして、私なりに楽しみながら荷ほどきをしていると、だんだんとお腹が空いてきたので隣の部屋のドアを叩いた。いきなり開けるのは忍びないので、ドア越しに柳に話しかける。
「これからコンビニに行くけど、何か買ってこようか?」
「うーん、なにかあたたかいものがあると嬉しいかな」
 扉の向こうからくぐもった柳の声が聞こえた。足音がして内側からドアが開く。
「おれ、あんまん食べたいかも」
 柳は段ボールから取り出したばかりであろう文庫本を数冊手に持ったまま、もし無かったらピザまんでもいいから、と続けた。柳の部屋にはシンプルなベージュのカーペットと、折りたたみ式のローテーブルに、木製の本棚にいくらかの本や雑誌があるだけで、引っ越してきたばかりだからかすっきりとしていた。残りの段ボールの大きさから、荷物もそう多くはなさそうだったので、もともと持ち物の少ないひとなのかなと思った。
「直也が来るまで家にいなきゃいけないから、申し訳ないけど頼んでいいかな?お金は後で返すから」
「いいよ、じゃあ行ってきます」
 直也くんというのは柳の高校時代からの友人で、使わないトースターを譲ってくれるというので夕方頃にうちに来ることになっているらしかった。私は、久しぶりに人に行ってきますを告げたことが、すこしくすぐったくなって、パーカーを羽織り、二つ折りの財布をズボンのポケットに詰めて、私の足によく馴染んだグレーのスニーカーを履いて足早に外に出た。錆び付いた階段を降りながら見た川の水面は、空に浮かぶ沈みかけの太陽のオレンジをゆらゆらと映し輝いていた。私にはそのうつし身の太陽の光があまりにまぶしくて、乾いた瞳を幾度かの瞬きで潤した。

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