『たまごの祈り』⑲

 柳は昼からバイトに出かけたので、ひとりで新しい家にいるのはまだ落ち着かないなと思って、昼過ぎから少しだけ眠った。

 夢を見た。
 私がまだ少女だった頃、かけっこをすれば一番のろまで、幼稚園の図書室でひらがなばかりの易しい絵本を読み、少しのことでも静かに泣いてしまう、ずいぶんと幼かった頃の夢だ。
 私は夢の中で母親と手をつないで、近所の公園からの帰り道を歩いている。母親の手で優しく結われた私の柔らかな髪が揺れている。辺りには夕刻を告げる鐘の音が鳴り響いている。私はその反響する鐘の音が聞こえるとなぜだかざわざわと不安になる。夢の中では楽しげに花や草が揺れている。不安など何もなくて世界は正常だというふうに揺れている。コンクリートの隙間からも名も知らぬ草が生え風に揺れている。私は足元を見ながらただただ母親だけを頼りに歩く。握られた手はしっとりとして優しい温度に包まれている。私はこの手を離して欲しくないと思う。私は時折母親の方を見上げながら幼い歩幅で家を目指して歩く。夕飯はオムライスにしようと母親が言う。私はオムライスでなくても構わないと思う。私は何かを変えなくてはいけないと思う。何か別の選択をしていれば、変わったのだろうかと思う。今日の夕飯がカレーライスやハンバーグだったら、何かが変わるのだろうかと思う。私は何も言うことができない。オムライス以外のものがいいと言うことができない。何かを変えたいからと言うことができない。母親はもうその日の晩ごはんはオムライスだということを決めている。私はあの日と同じように右足と左足を交互に前に出して歩く。母親の手を強く握り返したいが、上手く力が入らない。何もわからないままの私は母親に連れられ、そのまま自宅のマンション近くまで歩き着いてしまう。何かを変えなくてはと思う。エレベーターの待ち時間、母親は近所のおばさんたちに声をかけられ私の手を離してしまう。それまで握られていた右手には母親の熱が残っている。私はまだ何も知らない。私はただエレベーターの扉を眺めている。すこし離れた後ろから母親の笑い声が聞こえる。私はまだ何も知らないのだ。私はただそこに立っている。風の音が聞こえる。きっと背中のむこうでは変わらず草花が揺れている。

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