『たまごの祈り』㊴

 由香里ちゃんが帰ってきたらしい、と柳からきいたのは、とても春めいた風の吹くようになった、昼下がりの食堂でのことだった。私たちは、学食で向かいあってお昼ごはんを食べていた。
 鶏そぼろのどんぶりに入っている温泉卵をスプーンでわりまぜながら、私は訊ねた。
「直也くんの恋人だった、っていう人?由香里さんって」
「そうなんだ。留学先から帰ってきたみたい」
 私は、柳と、付き合っていた頃の直也くんと由香里さんが、三人で中華街に行ったという話を思い出していた。中華街のことを考えながら、なぜだか私はそのままパンダをイメージした。あたまのなかでやわらかなパンダが何匹も勝手に増えては転がって、ぱっと音をたてるようにして消えていった。パンダを転がしながら、もう何年も中華街なんて行ってないな、と、ぼんやりと思った。私は赤レンガ倉庫でぬるい潮風を頬に感じながらジェラートが食べたかった。なんとなくだけど、柳にはミルクジェラートが似合うなと思った。
「仲直り、しないのかな、由香里さんと直也くん」
「ね。おれもそうなってほしいんだけど、なかなか難しそうなんだ」
「そうなんだ。ふたり、なにか理由があって、深刻な別れ方しちゃったのかなあ」
「わかんない。詳しいことはおれも全然知らなくて。直也が話したがらないから。それよりも、気になってることがあるんだ」
「気になってること?」
「由香里ちゃん、男の人と帰ってきたみたいなんだ」
「え」
「留学先で知り合ったみたい」
「新しい恋人ってこと?」
「わからないけれど、由香里ちゃんとよく連絡とってるみたいだし、仲はいいんだと思う。由香里ちゃんからきいたんだけど、同世代くらいの、日本人の男性らしい」
「直也くんは、それ、知ってるの?」
「知ってる。何なら、由香里ちゃんのほうから、直也とその男の人を会わせたいって、いま誘ってるらしいんだ。そこにできればおれも同席して欲しいって」
 直也は頑なに断ってるらしいんだけど、大丈夫かなあ、心配だなあ、と言いながら、柳は唐揚げ定食のお味噌汁に手をのばした。
「由香里さんとその男の人、どういうつもりで直也くんと会う気なんだろう。仮に新しい恋人だとして、わざわざかつての恋人に会わせるかなあ、単なるお友達なのかな」
 緑茶の注がれた湯呑みで手を温めながら私は、中華街の写真で見たときの笑顔の由香里さんをぼんやりと思い出していた。中華街と言えば、私は小籠包もたくさん食べたいんだった、と思ったりもした。留学先からついてきたという男の人のほうは、うまくイメージができなかった。留学ときいて、なんとなくかんたんなアメリカ人男性みたいなイメージが生まれて、もやもやと頭の中で煙になって消えていった。
「うーん、由香里ちゃんの意図も、その男の人の人となりもわからないから、なんとも言えないなあ」
 柳は唐揚げをちいさく囓りながら、ほんとうにどうすればいいかわからない、みたいな困った顔で、苦そうに笑った。
「とにかく、柳くんだけでもいいからその男性に会ってほしいって由香里ちゃんは言うんだけど、どうにも気まずくって」
 柳は緑茶でごはんを流し込み、ふう、とため息をついた。
「おれ、由香里ちゃんとその男の人に、直也より先に会ってみようとは思うんだけど、伊田もついてきてくれないかな。変な頼みなのはわかってるんだけど」
 私は、ふむ、と思いながら、鶏そぼろ丼の最後のひとくちを食べた。先日餃子をやったときに余った、冷凍庫に眠っている豚挽肉を甘辛く煮たのを、今度自宅で作ろうと思った。最後のそぼろを名残惜しく飲み込みながら、由香里さんと男性についても考えてみた。私は直也くんの恋人だったという、由香里さんに少し会ってみたかった。
「柳がいいなら、私も行こうかな」
「ほんとうに?来てくれたら心強いよ。由香里ちゃんも、女の子がいた方が話しやすいと思うし」
「役に立てるかはわからないけど」
「伊田はいてくれるだけでおれの役にたってるよ」
 柳は恥ずかしげも遠慮も照れもなく、こういったことを口にできる青年だった。私は柳のことが羨ましかった。私は柳の言葉の使い方に、信頼を置いていた。洗いたての麻のブラウスみたいにさらりと新しい心持ちにさせてくれるのだ。最近の私はほとんど彼に甘えきっていた。たまに買ってきてくれるプリンとか嫌味のない言葉とか淹れてくれたばかりの紅茶の湯気なんかに。
 甘えている?
 私は考えながら気づいた。自分でも全く気づかないうちに私は柳に甘えていた。
 それは人肌のようにぬるい恐怖だった。私は赤子になって、がらがらと鳴るおもちゃさえ柳に振ってもらっている気がした。私は完全に油断していた。それがいいことなのか悪いことなのかわからないまま、生活に柳を都合良く受け容れていた。
 私はもしかしたらいま幸せかもしれない、と思って、すこしだけひび割れたカップみたいに怖くなって、なんだか急に柳の顔を見てられなくなってしまった。中華街に行きたいと考えたとき、心のどこかでなんとなく、柳はきっと誘えば着いてきてくれるだろうと思っていたし、ジェラートなんか一緒に食べてくれるような気さえしてしまっていて、なんだかばかみたい、と思った。彼には彼の生活と時間を生きて欲しかった。そんなに大げさなことではないかもしれないけど、私はまったく、彼のなにかを侵害したくなかったのだ。図々しくも、一緒に暮らしているというのに。でも、私は柳に甘えていた。
 私は、次の授業があるから、と言って席を離れ、食器を返却口に足早に運んで食堂を出てしまった。
 急に自分の全てが恥ずかしくなって頬に熱が溜まるのがわかった。もう春だというのに、風はまだこんなにも冷たかったっけ、と思った。

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