『たまごの祈り』㉔

「私、あおちゃんの瞳のなかが好き。だって何を見てるかわからないんだもの」
 彼女が初めて私の部屋に来た日、もう外はすっかりぬるい空気をまとっていて、季節の変わり目に芽吹きかけた桜の吐息が聞こえる、春の日のことだった。私は心臓を捕まれるような思いで、私のベッドに座ってすらりと伸びた脚を退屈そうに揺らす、彼女の声を聞いていた。私は彼女の隣に座って、窓から流れ込むざわざわと揺れる木の音を聞いていた。近くに彼女の呼吸があるのに、私は窓の外ばかり見つめて、どうしたらいいかわからないまま、ただ時が過ぎるのを待っていた。
 彼女がのばしてきた手を、私は控えめに握り返して、ベッドの上で向かい合って座った。彼女は深い色の瞳で私のことを見つめ、不意に私の頬にキスをした。私たちはこれまで、恋人らしいことは手を繋ぐ以外にしたことがなかったので、私は驚いて彼女を見つめ返し、すぐに目をそらした。私のつめたい頬に触れたぬるい感覚が、いつまでもくすぐったかった。
「あおちゃんは私のこと、好きじゃないでしょう?」
 え、とちいさく声に出した私は、目を泳がせて、なんでそんなこというの、と、力なく問うことしかできなかった。
「あおちゃんは、私のこと、嫌いじゃないけど、好きでもないよね?」
 もう一度訊ねられて、私は困ってしまった。ほんとうに彼女のことは好きなのだ。美しいものを生み出す指先、迷いのない言葉、私にはないものばかり、彼女は持っている。
「そんなこと、ないよ」
「でも、ちゃんと好きではないと思う。恋人としての好きじゃない。見てたらわかるよ」
 頭がじんじんと痛んだ。恋人として?それはどういうことだろう。私は彼女が好きなのだ。人としてとても尊敬していて、彼女の言葉や横顔や掌が好きで、それだけでは、いけないのだろうか。
 頭の中でぐるぐると考える私を嘘のない瞳で見つめながら、彼女は続けた。
「あおちゃんは、私と自分からくっつこうとしないし、あんまり、そういうことするの、好きじゃないのかなって。だったら私たち、恋人じゃなくていいんじゃないかな」
 わからない。わからないけれど、何かが彼女を傷つける気がして、私は、それまで安易に彼女に触れられずにいた。どこかで何かがわかっていたのかも知れなかった。私が彼女を選んだのは男性ではないからで、かといって私は女性が好きなわけではなかった。私は彼女の好意を利用したのだ。なんて勝手なことをしてしまったんだろう。でも、恋愛の好きとか嫌いとか、そんなこと、私にはわからない。私は彼女を人として尊敬していてとても好きだ。でも、それは彼女にとって問題ではないのだ。彼女を恋人として求める私を、彼女は求めていた。そしてそれはもう、私にはどうしようもないことだった。

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