『たまごの祈り』㊱

「今日ね」
 綺麗に切り分けられた玉子焼きを箸で触りながら、私は切り出した。
「うん?」
 柳はほかほかのお米がたくさん入ったお茶碗に、さらさらとのりたまのふりかけをかけているところだった。白米からたちのぼる湯気がが心地よく宙を舞った。
「透子が来てたの」
 綺麗な玉子焼きは、箸によってななめに歪に切り分けられた。私はそれを口に運んだ。じゅわりと広がったお出汁の味が甘く染みた。それは優しい風味を鼻先から通り抜けさせ、柔らかく噛み砕かれた。
「透子さんが?うちに?」
 いつの間に親しくなったの、と、心底驚いた顔をしながら、柳はお醤油に手を伸ばした。玉子焼きに添えられた大根おろしが、落下する一筋のお醤油に馴染みながらみるみる色を変えた。
「そう。スーパーで会ったの」
「へえ、それでそのままうちに来たの?」
「うん。透子、驚いてた」
「何を?」
 お味噌汁を美味しそうに啜りながら、柳は訊ねた。
「男女が一緒に住んでるのに、何も起きないのはおかしい、って」
 柳が綺麗な目を丸くして戸惑っているのがわかった。少しの間を置いて、柳は言った。
「それは、そうかもしれないね」
 柳の手からゆっくりとテーブルに戻されたお味噌汁から立ち上る湯気は、私たちの間で白く柔く揺れた。
「いろいろ考えたの、私、柳のこと、まだあまりよく知らないから」
「うん」
「それで、こんなことは訊くべきではないかもしれないんだけど」
「うん、いいよ、おれも伊田に話したいことあるし、何でも訊いて」
「うん、ありがとう、あのね」
「うん」
「柳はさ」
「うん」
「その、なんていうか、直也くんのことが好きなの?」
 瞳を大きく開いたあと、くしゃりと眉を下げながら、柳は、今までに見たことのないような大きな声で笑い出した。おなかを抱えながら、あははは、と大げさに笑う柳は、目の端に涙すら浮かべていた。
「いやいや、伊田、あのね、なんで、そうなるの」
「だって、二人とも仲いいし」
「まあ友達だからね」
「直也くんと由香里さんのこと、羨ましいって、言ってた」
「言ってたね」
「透子も、女に手を出さないということは、ホモなんじゃないの、って、言ってて」
「全くの見当違いだよ」
 あー、笑った、伊田は面白いな、直也より面白いんじゃない?と言いながら、まだおかしそうに肩を震わす柳を見て、なんだかこっちまでおかしくなってしまった。なあんだ、変に心配した、と言いながら、私もつられて笑い出してしまった。あたたかな食卓から立ち上る湯気は、私たちが笑う度にゆるやかに揺れた。
「さ、食べよう、冷めちゃうともったいないから」
 一息ついた柳は、箸を手に取り、美味しそうにごはんを食べ始めた。私もお味噌汁に手を伸ばし、ひと口飲み込んで、柳におそるおそる訊ねた。
「柳、怒ってない?」
「なんで?」
「急に変なこと訊いたから」
「怒ってないよ、変なことは訊かれたけど」
「ならいいんだけど」
「あとでさ」
「うん」
「伊田に話したいことがあるんだ、訊きたいこともあるし」
「うん」
「それでおあいこね、いや、別に怒ってはないんだけど」
「うん」
「この玉子焼き美味しいね」
「うん、ありがとう」
「伊田もたくさん食べな」
「うん」
 私は、柳のこと、何も知らないまま暮らし始めてしまったな、と思って、幸せそうな柳を、ごはんを食べながらなんとなく見つめた。柳は、ほんとうに不思議なひとだと思った。彼みたいに、一緒にいてこんなにも安らかな思いを抱けるひとが、他にいただろうか。私は、柳が美味しいごはんを食べ、あたたかい布団に包まり、綺麗な星空にいたく感動したり、道端の花を愛でる心を見失わなかったり、そういった幸せを、いつまでも、享受できたらいいのに、と、ごく自然に強く願った。柳には、何があっても、幸せであってほしい。私は、柳が健やかであることを、ほとんど奇跡のように、見たことのない神様に感謝した。
 そんなことを考えながらもくもくとごはんを食べていたら、すこしの涙がほろほろとこぼれて落ちた。さいわい、柳は目の前の食事に集中しているようだった。このまま、柳がいつまでもこの涙に気づかなければいいと願った。

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