『たまごの祈り』㊶

 空が紫になったころ、私は自宅の玄関を開け、柳がいつも履いているスニーカーがあるのに気づいてすこしだけためらってから、ゆっくりと扉を閉め、中に入った。玄関から差しこんだ夕方の薄い光が静かに消えていった。
 柳の部屋から、おかえり、という声が聞こえて、なんだかずっと家出をしていたのに自分から帰ってきたときのような、へんにばつのわるい気持ちになった。私は聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、形だけのただいまを呟いた。
 冷蔵庫に買ってきたものを詰め込んでいると、いかに自分が無駄な買い物をしたかがよくわかった。無糖ヨーグルトなんていつもの二倍買っていた。
 柳が部屋から出てきて、冷蔵庫からつめたい緑茶を取り出しながら、ひさしぶり、と言って、初めていたずらをした小学生みたいに笑った。
「ずっと部屋から出てこないから、心配したんだよ」
 緑茶を私のぶんまでコップに注ぎ、テーブルに置きながら、柳はわざとらしく眉を下げて見せた。これまで顔を合わせたくないと思っていたけど、なんだか大丈夫かもしれないな、と思って、すこし頬が緩んでしまった。
「外に出れる気分じゃなかったから。体調が悪いとかではないんだけど」
「五月病とかかな?ちゃんとしっかり食べて寝てたの?」
「食欲もそんなにないわけではなかったし、いつもより長い時間寝てたよ」
「そっか、ならよかった。今日は晩飯一緒に食べられる?おれ、お腹すいて何か作ろうかと思ってたところなんだ」
「うん。なんか作って食べよ。私もお腹すいた」
 私たちは、冷蔵庫の雑然とした中身にあきれ、なぜか半玉のキャベツがふたつあることに笑い、それぞれ自分の千切りの下手さに少しの絶望をして、たっぷりのキャベツサラダを作った。そのあと、冷凍庫に眠っていた豚肉を焼いて、市販のたれで味付けをして食べた。すべて簡単なものだったけれど、なんだか今日は久しぶりに、ちゃんと食べたなあという充実感があった。
「柳」
「うん」
 柳は、私のために存在するように聞こえる、うん、という返事を、いつも正しく発音した。その声は、私には優しすぎた。それは掌に落ちてきた雪みたいに、すうっと溶けて馴染んでいった。
「ずっとこのまま生きていけないかなあ」
 気がついたら私はそんなことを口走って、自分の声を遅れて聞いた耳が、少しずつ紅くなっていくのがわかった。私は何を言っているんだろう。私は私の気がつかないうちに、今日みたいに気まぐれに出かけて、帰ったら柳と幸せにごはんを食べて、こんな平和がいつまでも続けばいいのに、と、思っていた。それも、ほんとうに、ほとんど無意識に。
「うん、そうだね、それはすごくいいな」
 柳は、ほんとうは、何のために、うん、なんて、言っているんだろう。
「柳」
「うん」
「ごめん、なんか、急に、疲れちゃった、久しぶりに出かけたし」
「そっか」
「寝ようかな」
「うん、そうしなよ」
 頭はぼうっとして確かに眠いけれど、私は自分が何をどうしたいのかはっきりとわからないまま眠るのが、少し怖かった。
「おれも、ずっと、このままがいいのかもしれないな」
 つぶやくように柳が言った。それは、若い肌が水を弾くように、私の心に響いた。そのまま心は初めて弾いた楽器の弦のように不安定に揺れた。もうそれだけで充分だった。
 自室に戻ろうとする私の背中に向かって、柳が思い出したように言った。
「伊田、明後日の夕方さ、由香里ちゃんと、由香里ちゃんが知り合ったっていう男の人と、駅前のファミレスで会うんだけど、来れそう?」
「明後日ね、わかった、いけると思う」
「また、時間とかはっきりしたら言うから。じゃあ、おやすみなさい」
「ありがとう、おやすみなさい」
 柳のおやすみなさいという声に、すっかり安心してしまって、私は布団の中で猫みたいに丸まりながら眠った。もう怖い夢を見ることもなかった。
 それでも、次の朝起きたとき、いまこの瞬間からこの世界に柳がいなくなってたらどうしよう、と思って、静かに、少しだけ泣いてしまった。

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